今回は三善晃作曲の「王孫不帰」を取り扱います。曲も詩も難解で骨のある「王孫不帰」。ひとまず曲の大枠とその聴き所をあえて単純化した形で紹介し、「王孫不帰」を捉える種のようなものをお伝えしようと思います。この楽曲は今後も何度か取り扱って行きたいと考えています。

『男声合唱のための「王孫不帰」』とは

作詩:三好達治
作曲:三善晃

曲の構成:Solo(Soli)3声+Tenor2声+Baritone2声+Bass2声

1970年に作曲され、反戦を主題とする三善晃の作品系列の第一作とされています。以下の三点が特徴的

  1. 能のような節回し
  2. ポリフォニーのクラスター
  3. E音(mi)を基点とした拡散と収束

原文(抜粋)と意訳

中国の詩から始まり、比喩的な表現が多く用いられますが、ごく単純化して言ってしまえば戦後の平和な日常の中に漂う死のかおりを描いていると言えるでしょう。

以下ではまず詩の意味をざっくりととってみます。わかりやすさを重視して、筆者の解釈によりデフォルメしています。これを一つの解釈と捉え、今後のより立ち入った曲の解説のためのたたき台とします。

原文(抜粋して第一楽章のみ)


王孫遊兮不歸 春草生兮萋萋
かげろふもゆる砂の上に
草履がぬいであつたとさ
海は日ごとに青けれど
家出息子の影もなし
國は滅びて山河の存する如く
父母は在して待てど
住の江の 住の江の
太郎冠者こそ本意なけれ

※『駱駝の瘤にまたがつて』より

意訳(全文)


帰らぬひとびと
人々は帰らず 春に草は生いしげる
天気のよいおだやかな春
陽炎のたつ砂の上
蜉蝣のようにはかない命を予感する
残された草履
海は青く
日々若いひとびとはうまれるが
家を出た息子はない
国破れて山河あり
戦いは終われど自然はもとのまま
父母は待つけれど……
忘れ草の咲く住江にて待つ
しかし若者たちこそ残念であったろう
鴎はもの悲しく思い
鳶は啼く
新しい命は春ごとに生まるる
結局ひとびとは帰らなかった
年を取った父と母は日常を過ごす
何事も無く日々は過ぎ
それでもまだ忘れ草の咲く住江にて待つ
海岸を悲しみを想起せよ
後世のひとびと耳をかせ
日が明け
機を織り
木を切り出す日常
てい とう ちょう きりはたり
という音が響き
その音にも若い男
帰らぬひとびとを想わせる

※「ちょう」は木を樵る斧の音。「きりはたり」は機織る音
「てい」「とう」「ちょう」はすべてもの打つ音を指す(三善晃「若い世代に手渡す手紙」)
また、「住江」は「土佐日記」をふまえているものと思われます

詩の持つ意味 -息子を失った父母の心情

ここで描かれるのは、〈死そのもの〉ではありません。日常にまとわりつく、不帰のひとびとへの確かな死の気配です。激情することなく、ただ待ち日常を過ごす父母の姿は、帰らぬ王孫(息子)を待ち続ける重たい不安と悲しみを静かに訴えます。
ついに発された「後の人 耳をかせ」という言葉に、耳をすまして聴こえてくるのは「きりはたり」「ていとう」「ちょう」のおと。死の気配とそれらへの不安を淡々と描写する音が、死や悲しみに一層の存在感を与えています。

今回は三好達治や三善晃の文学史上、音楽史上の立場やその技巧について具体的に立ち入ることはせずに素朴な解釈を行うことで『王孫不帰』と向き合う下準備を行いました。
「なぜクラスターした(ハモらない)和声を組んでいるのか」、曲の構成はどのようになっているのかについて等、まだまだ考えどころの多い作品。冒頭に述べました通り、今後も何度か取り扱う予定です。

参考文献- 全音楽譜出版社「若い世代に手渡す手紙」三善晃

『週刊「Vのススメ」|第5回演奏会特設サイト』インターカレッジ男声合唱団Voces Veritas