第20回定期演奏会記念誌より 三善 晃

 私にとって第二曲目の男声合唱曲ですが、色々の意味で初めての内的な体験が、この曲の素描に先行しました。
 田中信昭さんと語り合うとき、よく話題になることですが私達がポリフォニイを実感的に把握するのにどこかぎこちないところがある、なにか、よそよそしい。あの、建築学的な構造性や弁証法的な論理が、どうも体の外にあるような感じがします。それは、ホモフォニックな音楽の内声を歌うときにもつきまとう問題です。
 三好達治のこの詩を凝視めている長い間に、裡に聴えて来る音がある、それが、この課題を、創作という営為の中で追ってみよう、と思わせる音でした。
 以下に述べることはすべて、この詰が私の想像に課した、あるいは与えた内的作業の経過の中にありました。

 第一には、この詩を口にする旋律の動向ですが、私自身の過去の環境に染みていた観世流の誦いや、たまさかに触れた声明のそれが、想像の中でふくらんでくる。あの誦いまわしは、ある意味では非日常的な語法ですが、私の心の深層では、ほとんどフィジカルな、と言える生々しい形質を持っています。
 具体的にそれはまず、イントネーションと音価の独自性に顕われてくるのですが、それこそ、誦者の呼気と吸気とが詞を体現する、心情的にも生理的にも必然な技法だと思います。
 当然それは発声法や、音程感や、フレージングに特性をもたらすことになる。こうしてSoliを含む9部の各声部の旋律動向が具体的な音のイメージとして定着してきました。この場合、旋律動向とは、単なる音程関係を意味するのでなく、それ自体の音楽的規制力や自発性に依って、ディナミークやリズムの特性をアプリオリに包含しています。

 第二に、このようなポリフォニィの素材がもたらすクラスターの処理です。
 誦いや声明のそれは、心情的にも技法的にも、たとえば墨絵がすべての色彩を含んでいるのにひとしい、音の、謂わば、幅なのですが、西欧的な手法としては、まずそれは非和声音の特殊な一時的状態、あるいは解決の変態または中断された形としてとらえられ、やがて今は、それ自体の即自性を持った音のかたまりとして扱われています。
 この曲では、上記のどの考え方もしない、あるいは、そのどれをも導入した、と言えます。実際、前述した旋律動向が多声で重なるすべての時点を縦にとらえて分析し直した結果を、この曲の素描の出発点としたわけです。

 第三には、中間部分に聴かれるように、ポリフォニックな手法と、フーガのストレットの手法を用いてありますが、これもまずは、誦いの追いや締めの呼気吸気に深い関わりがあります。
 もちろんここで、対位法的な音楽のプレリュードやインベンション、更にはフーガのカデンツやストレットのaccelerando句や、走句ritenuto、fermataなどの構成法をも意識しました。
 いや、むしろ、この詩の詩法は原理的には非常に弁証法的な構築性を持っているので、ある意味で、このような手法はこの曲の持続統一の重要な裏打ちになっていると言えます。
 つまり、曲全体の持続を横に見通すとE音を主柱として発現する呼気と吸気があり、それが前述のクラスターを含めて増殖し、やがてE音に吸収され凝縮する、それを詩句そのものの暗示に依るものとすれば、縦の形式上の重力の配分や構成は、この詩の詩法が契機となって、私の裡に、謂わば、感情自体の即自作用を起した結果だと言えます。メチエとしては形式の力学に属するものです。
 この詩そのものについては、私なりの実情があります。しかしそれは不帰の人達への弔慰や贖罪、ひいては悲しみとか、あるいは怒り、そのどれであるとも言えない、生者は生者自身の中に、この詩をつぶやく対手を持っている、と思いますから。

(1970年10月13日)

全音出版譜のための解説 三善 晃


 田中信昭さんから勧められ、1970年、法政大学アリオンコール合唱団のために作曲した。
 幼少時から家で耳にしていながらなじめなかった謡いの拍節や律法が、この時は三好達治の詩句にふさわしいものに思われ、声部の横の動向に採り入れた。そのポリフォニイは縦の関係では自然にクラスターを造るが、それも謡いのコロスが手引きしている。

 詩の思想は言うまでもない。私としては、露わでない一つの哀しい情感を私自身に向けて像造る気持に従った。はたり、ちょう、という詩句を、詩の中での由来よりも私の情感に近づけながら扱ったのも、この気持からだった。

全音出版譜のための解説1996年改訂版
 三善 晃


若い世代に手渡す手紙

  1970年、田中信昭さん指揮の法政大学アリオンコールのために作曲した。翌71年に≪レクイエム≫、続いて72年に≪オデコのこいつ≫を書いているので、この反戦を主題とする私の作品系列の第1作となった。

  初演以来、四半世紀が過ぎたこの頃になって、多くの男声合唱団が歌ってくれるようになった。咋95年の全国合唱コンクールでは、戦後50年ということでもあったからか、高校の2団体がうたってくれた。
 戦後、帰らぬ息子たちを待っていた父母たちの年齢に、今の私はなっている。若い人たちがこの曲をうたってくれるのを聴いて、胸の熱くなる思いだった。

中央公論社 日本の詩歌より


解説


 「駱駝の瘤にまたがって」は昭和27年3月、創元社から上稡された達治18番目の詩集である。
 この詩集は三部に区切られ、「聞人断草」「秋風裡」「水光微范」の三部からなる。
「水光微范」の詩二十三編(この中に王孫不帰がある)は達治が戦後の東京に戻ってからの作品で敗戦後の文化人情の頽廃を痛憤し怒りに近い烈しい感情をもって、大胆な諷刺と痛烈な批判を試みたものであった。
 「王孫不帰」
 この詩は中国の有名な楚辞の第十二巻にある漢詩「招隠士」中の句を前詞としている。この漢詩は堽南小山の作で王孫とは若い貴公子をさす。その帰らざるを嘆いた心が、この詩に通じている。
 この詩は王孫に擬して、南方の海に出ていった未帰還の若者を待つ家郷の悲しみをうたった。哀情切々たる悲歌である。

 冒頭から剽軽におどけて、浦島太郎の昔話に寓意している。「住の江」は万葉集に長歌以来浦島の故郷と考えられ、「太郎」に「冠者」の語を添えているのは、若者をイメージしたもので、狂言ではおなじみの「太郎冠者」を転用した。「太郎冠者こそ本意なけれ」とは、遠くにいる若者の状態の物足りなさ、頼りなさをいったのである。
 「国は亡びて山河の存する如く」以下の表現では、南方に出征した若者が、戦後になっても帰還せず、生死不明のまま父母が息子の帰りを待ち侘びる気持ちを表している。
 第五、六連では、時間の経過を表し、第七、八連は息子がついに帰らず父母は年老いて爺婆になったことをいい含めている。
 父は翁となって山で木を樵る。母は媼となって家で機を織る。こうしたささやかな営みのうちに、平安無事の日が過ぎてゆくのだけど、翁と媼の想いはいつまでもそこで終連の「丁東、丁東、東東」という木を樵る斧の音にも、父母の悲愁の通うものがある。それを後の人も耳あらば聞くがよいと、昔話の意をこめているのである。
 この詩の表現には、詩特有の省略法が用いられていて、抑揚の効いた含蓄のある表現がとられている。ことに終連の擬音的表現によって肉親の深い悲しみをいいあてるところなど至工至妙、実に達治の抒情芸術の技巧の効極まれる秀作であると思う。

(昭和45年9月20日)