印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |

アリオン100.jpg法政大学アリオンコール HISTORY

はじめに

 アリオンは遠くギリシャ神話に登場する伝説的な音楽の達人であり詩人である。その美声は天地諸々の生物に安らぎを与えたという。アリオンコール(以下アリオン)は、このアリオンにちなんだものとして法政大学で最も古い音楽サークルとして発足した、と言い伝えられている。しかし、その創立時期については、大正初年、大正末期、昭和初期と諸説がある上、これまで決定的な記録を見つけ出せなかった。

 そのためアリオンでは、1940年(昭和15)6月15日に藤原義江を招いて日比谷公会堂で行ったアリオン主催「独唱と合唱の会」を第一回定期演奏会としてきた。幸い今回の編集作業を通じ、「法政大学八十年史」や「法政大学新聞」等で、1928年(昭和3)に創立したことや定期公演、ラジオ放送等の記録も発見され、本年アリオンは創立70年を迎えた。
 これからアリオン70年の歩みを記すに当たり、まず最初にアリオンが生まれ育った法政大学について、その創立からアリオンの生まれた昭和初期までの50年間を辿ってみよう。

序章 法政大学 小史(1880~1930年頃)

く東京法学社の誕生〉

boiddonade.jpgボアソナード博士 1880年(明治13)4月、法政大学の前身である東京法学社は、在野の法律家金丸鉄、伊藤修、薩挿正邦等により東京府神田区駿河台北甲賀町19番地池田坂上に創立された。この年は、政府のお抱えフランス人ボアソナード博士の起草する刑法及び治罪法の発布等もあり、次第に近代国家としての体制を整えはじめていた明治社会の中で、法知識や技術者等への社会的要求が急激な高まりをみせた年であり、また自由民権運動が全国的な規模に転化した年でもあった。

 1881年(明治14)、東京法学社は東京法学校となり、ボアソナードを教頭にフランス近代思想に立脚した法律専門の私学として、法律運営のための専門技術者の養成教育が始まった。こうした社会的背景もあり、本学に続きわが国の有力私大の前身が法律学校として相次いで創立された。それは専修学校(専修大学)、明治法律学校(明治大学)、東京専門学校(早稲田大学)、英吉利法律学校(中央大学)等である。1889年(明治22)、東京法学校は、東京仏学校と合併して和仏法律学校となり、1903年(明治36)には専門学校令公布により「和仏法律学校法政大学」と改称した。1904年(明治37)には靖国留学生のために法政速成化を設け、汪兆銘など多くの著名な人物を輩出した。

九段上校舎.jpg
九段上校舎

く新大学令による総合大学への飛躍〉

 1920年(大正9)、法政大学は新大学今により大学に昇格する。
これについて「法政大学八十年史」は、この「年」は、法政大学の歴史において画期的な年となった、と特筆している。というのもこれまでの法政大学は、専門学校に基づいた財団法人和仏法律学校が設置した「法政大学」であって、いわば“自称”であり、公式には帝国大学令(1886年)による官立の帝国大学以外は大学として存在を認められていなかったからである。法政以外には、早稲田、慶應、明治、中央、日本、国学院、同志社の八大学が最初の昇格校となり、以後1922年(大正11)には立教、立命館等と続いた。
 こうして法律一辺倒から法文学部と経済学部への改編、外濠に陰を映す新校舎(1921年)の建設等により大学は充実し、夜間部から昼間部学生を主とする総合大学となった。

 これは同時に、腰をすえて研究と教育にあたる専任教授と、仕事で時間をとられない自由な学生を得たことを意味した。そして大正デモクラシーと呼ばれる自由で批判的かつ社会的な空気も漂うキャンパスでは、社会主義的傾向の学生運動や各種の運動部・文化部の活動が始まった。

hujimi大正10.jpg
竣工した第一校舎(大正10年)

く関東大震災と法政大学(大正末期)〉

 1923年(大正12)9月1日、関東大震災発生。突如襲った大地震によって東京は、三分の二が焦土と化し、僅かに丸の内の一部を除いて下町は全滅の有様となった。神田にあった明治、中央、日本、及び専修の諸大学においても相当の損害を被った。
幸い法政大学は、ほとんど損害がなく、9月の学期始めから授業が出来た。これによって翌13年から法政大学志望の学生は急増し、大震災から昭和2、3年にかけての不況期にもその傾向は衰えなかった。
 一方でこの大震災は、東京から江戸の名残りを一掃し都市生活を近代化すると共に、官立私立の大学、専門学校の拡張によって知識階級を大量創出することとなった。サラリーマンの増大によって“モダンガール”“文化生活”と言われたような、「モダン」「文化」という言葉が愛好された。(1)こうした社会的な雰囲気の中で新大学令により総合大学へ歩み始めた法政大学においては、この大正末期には、学生の文化活動やスポーツも花を開いた。音楽部や演劇部の公演は、学生の呼び物となった。

kyusei_04.gif
外堀に立つ新校舎

 「法政大学百年史」は、当時の学生生活について「活気に満ちており、課外活動は飽くことない意欲が傾けられた。一階には学生控室があった。四方の板壁には学校の各事務室の掲示や、学生のいろいろな部(運動部だけでも、剣道、柔道、陸上競技、相撲、スキー、庭球、馬術、水泳、ラグビー、弓道、ア式蹴球(サッカー)、射撃、山岳、ホッケー等、文化関係では音楽、劇研、映研、美術等の各部があって、それぞれ活発な活動をしていた)の掲示が貼りめぐらしてあった」と記している。

(1)岩波新書「昭和史 新版」1959年8月31日、p.26.37.66

く法政文科、運動部の黄金時代(昭和初期)〉

 1926年(大正15)12月25日、大正天皇が亡くなると、皇太子裕仁が皇位につき「昭和」と改元した。1927年(昭和2)からの金融恐慌により五大銀行(三井、三菱、住友、第一、安田)の制覇と地方銀行の合同が進行した。金融恐慌による休業銀行は37をかぞえ、中小銀行の預金は、大口は一流銀行、小口は郵便貯金に移った。現在の状況に大変良く似ている。金解禁は1930年(昭和5)に実施されたが、折しも世界恐慌のまっただなかに投げ込まれ失敗した。

P27.gif
法政大学自由主義研究会(昭和8年頃)

 「大学は出たけれど(小津安二郎監督.1929年)」という映画がヒットしたように大学卒業生の大半は職がなく、知識階級をマルクス主義思想が席巻した。(1)この頃は「法政大学八十年史」が「文学部の黄金時代」と呼ぶ時代である。文学部は、漱石門下の著名な作家や文学者が中心となって設立され、当時それだけでも異彩を放っていたが、三木清、谷川徹三が加わってさらに活気をおびた。

kyusei_02.gif
富士見校舎(昭和初期)

 2月には六角校舎が落成した。(2)1928年(昭和3)5月、創立50周年の記念式典を挙行した。6月には新聞学会創設、11月には牛込駅が廃止され、やや水道橋寄りに飯田橋駅が開設された。同駅は奇しくもアリオンと同じ創設で学生とのつき合いも70年となる。
 1930年(昭和5)1月、新しい校歌・応援歌が制定された。10月には若林投手を擁して東京六大学野球で初優勝、神宮の森に新しい校歌が高らかに鳴り響いた。1930年から1935年にかけては運動部においても「黄金時代」であった。

kyusei_03.gif
六大学野球で慶應を二蹴。大喜びする応援団(昭和5年)

 1931(昭和6)年5月29日、開港間もない羽田国際飛行場から小さな複葉のプロペラ機が飛び立った。東京朝日新聞夕刊が「吾等の『青年日本号』訪欧の壮途に上る」と題して一面トップで伝えたこの複葉機こそ、法政大学航空部の「青年日本号」だった。地図と羅針盤だけを頼りにした有視界飛行でローマを目指す「青年日本号」には、正操縦士として経済学部2年生・栗村盛孝、付添教官の熊川良大郎一等飛行士が搭乗していた。
シベリアからウラル山脈を越え、ドイツ、イギリス、フランスでの親善友好を果たし、ローマのリットリオ飛行場に翼を休めたのは8月31日。
 まさに校歌にうたわれている「青年日本の代表者」としての面目を発揮した、世紀の快挙と称賛された飛行であった。

kyusei_02.jpg
「青年日本号」の訪欧飛行

 なお、序章は全体を通じ、「法政大学八十年史」「法政大学百年史」をもとに記述し、写真は大学史編纂室より提供いただいた「法政大学の100年」より掲載した。

(森田 修)

(2)六角校舎 1927年2月落成以来、多くの法政マンが親しんできた六角校舎は、1970年11月20日に取り壊され、富士見町からその重厚な姿を消した。

ページトップへ