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アリオン100.jpg法政大学アリオンコール HISTORY

第一章 アリオンコール 誕生(1928~1935年頃)

く法政大学音楽部の創立(1922年一大正11)〉

 音楽部の創立は、「法政八十年史」によると1923年(大正12)である。しかし大正12年版「音楽年鑑」には”最近オーケストラを組織し杉山長谷夫(1)が指導、田尻幹事が事務をみている”と紹介され、昭和6年版以降では、「音楽を研究し、情操の向上を計り、以て円満なる人格を養成し合奏により団体精神の涵養に努むる目的で、大正11年3月に組織さる。」と紹介されている。
 音楽部が創立された大正末期の法政大学の状況は、序章で述べたので、当時の日本音楽界を見渡し音楽部創立の外的要因を探ってみよう。大正13年版「音楽年鑑」の特集「楽壇十五年史」において牛山充(2)は、慶磨ワグネルと早稲田音楽会とが学生間に音楽趣味を普及した功績を高く評価すると共に、高等工業、高等商業、外語、明治、法政等の諸大学に音楽部を設立させる動機となった。そして指導者の大塚浮、永井建子、杉山長谷夫、樋口信平等の名も忘れてはならぬ、と記している。
 その他、1922年に東京慈恵会医科大学学友会音楽部、1923年には明治大学交響楽団が組織された。この当時は、「音楽部」といえばオーケストラ部を意味していた。

立教大学でも1923年頃には音楽部が存在しており、1923~24年頃に音楽部の中で合唱活動が盛んになってグリークラブが派生し、音楽部は管弦楽部と呼ばれるようになったという。(3)ちなみにアリオンの大正末期創立説の由来は、これと同じようなものであった。1924年には学習院輔仁会音楽部、学生以外では帝国ホテル管弦楽団、女性だけの帝国女子管弦楽団等が設立された。1926年(大正15)10月には、NHK交響楽団の前身である「新響」が、近衛秀麿の指揮で第一回研究発表会を日本青年館で開催した。

(1)杉山長谷夫1889年8月5~1925年8月25日作曲家、ヴァイオリン家。若き日の思い出、秋の唄等を作曲した。
(2)牛山  充 評論。1885年6月12日生。「音楽年鑑」の大日本音楽協会の評議員。日大及び正則英語教師。舞踊ペン倶楽部常任幹事。東音甲師出身。1928年まで東音に奉職、1934年まで東朝客員。「音楽鑑賞論」「声楽法」等の著書及び解説多数。
(3)「立教大学グリークラブ50年史」1964年、p36

くアリオン誕生前夜の日本合唱界〉

 明治30年代、いわゆる「東西四大学」と呼ばれる大学合唱界の名門、すなわち関西学院グリークラブ(1889年-明治32)、慶應ワグネル・ソサイエティー(1902年-明治35)、同志社グリークラブ(1905年-明治38)、早稲田音楽会声楽部(1907-明治40、のちのグリークラブ)が産声を上げた。大正末期には東京市が山田耕作を指揮者とし市民の趣味向上を図る目的で設立した東京市民合唱団(1922年-大正11)や立教大学グリークラブ(1924年-大正13)、東京リーダーターフェル・フェライン(1925年-大正14、創立者・指揮者山口隆俊)、東京高等学校合唱団(1926年-大正15)等が生まれた。
 しかし、戦前、戦後と合唱連盟理事長を勤めた小松耕輔は、この当時の合唱運動について、東京音楽学校、各種の女学校や師範学校、またはキリスト教会などで行われていたに過ぎず、小学校や中学校は単音唱歌、高等学校には全然音楽はなく、単音の寮歌やデカンショだけであった、と述べている。(1)1920年(大正9)、小松は音楽研究のため欧米留学に出発した。この時、文部省・内務省から社会音楽の研究と調査を嘱託さていたこともあり、「欧米では合唱や吹奏楽が連合競演して、盛大に音楽会を催している」と大変感心した。そこで帰国後、わが国でもまず社会音楽をさかんにし、コンクールによって一般の民衆に音楽の趣味を普及し、その水準を高めることが急務であると「国民音楽協会」を設立し、ついに1927年(昭和2)11月28日、東京の日本青年館で、第一回合唱競演大音楽会を開催した。これは日本の合唱運動にとって、黎明期から今日の隆盛、発展へと転化する。
ちなみにこの時の役員には、小松耕輔、平五郎(2)清(3)の音楽三兄弟、審査員には瀬戸口藤吉(4)の名が見られる。法政大学は音楽部に指揮者で「軍艦マーチ」の作曲者として有名な瀬戸口藤吉氏を、翌1928年(昭和3)に産声を上げるアリオンは、この年「国民交響楽団」を組織し指揮者として活躍し始めた小松平五郎氏を、それぞれ指揮者に迎えるという音楽的に恵まれた環境下にあった。

(1)「合唱界」7号1957年。p54”p55 小松耕輔“合唱運動とコンクール”小松耕輔1884年12月14日~1966年2月3日。明治~昭和期の作曲家・音楽評論家。秋田生。東京音楽学校卒。在学中より「音楽新報」の編集に携わり、評論活動に従事するとともに、1906年、小林愛雄らと楽苑会を組織し、日本最初の創作オペラ「羽衣」「霊鐘」を発表。大正初期には「大正幼年唱歌」などによって童謡運動の先駆をなす。1920年渡欧。パリ国立音楽院でヴイドールらに学び、1923年(大正12)帰国。媚国後はフランス音楽の紹介につとめ、合唱運動や音楽著作権擁護にもつくした。歌曲「泊まり舟」「母」、童謡「電車」などでも知られる。
(2)小松平五郎1896年4月20日~1953年3月28日。大正・昭和期の作曲家、指揮者。秋田生。兄・小松耕輔、弟清の音楽家兄弟。慶応中退、国民交響楽団主宰。作品には「快速船と悪夢」「人間礼讃」などがある。著書に「模範音楽辞典」(1937)がある。
(3)小松 清1899年4月15日~1975年4月12日。音楽評論家、フランス文学者。 東京帝大仏文科卒。1929年、鋼羅合唱団主宰。1936年、東京高等学校教授。 1949年、東大教養学部教授。1961年、東京芸術大学教授。1967年、東海大学教養部教授。著書に「西洋音楽の鑑賞」など多数。舞踊音楽、歌曲の作曲もある。
(4)瀬戸口藤吉1868年5月10日~1941年11月8日。指揮者、作曲家。鹿児島生。 1S82年、海軍軍楽隊入隊。1908年から日比谷公園奏楽堂で軍学を指揮、管弦楽も演奏した。1911年、イギリスのジョージ5世の戴冠式に27人の軍楽隊の隊長として派遣され、ヨーロッパ各地で演奏した。1918年退役。帝大音楽部、立教大音楽部等を指揮後、法政音楽部の指揮者に就任。前の法政大学校歌、後にアリオンの部長にもなられた為光直経作詩による「御濠に影うつして」を作曲した。

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くアリオンの創立〉

 「アリオン」という命名の由来や創立の経緯については今までよくわからなかった。しかし、それを知るチャンスはあった。
 1958年(昭和33)、田中信昭先生も参加された北海道演奏旅行である。この時、一行は長万部駅で創立のメンバーの永井敏男(旧姓猪股)駅長に会っている。しかし、残念なことは、その後アリオンの創立メンバーが函館にいる、という事実を忘れてしまったことである。昨年3月、編集委員会で白鳥委員よりこの情報を知り、突然ではあったが万が一の可能性を信じてJR長万部駅長宛に、“40年前のことであるが永井駅長の消息を知りた
い’’と調査を依頼したのだった。すると1週間もしないうちに、現長万部駅長である関戸邦夫氏より「永井前駅長は既に平成2年にお亡くなりなっているが、奥様のセエ様がご健在であること、永井氏は亡くなる迄アリオンのことを気にかけていたこと、奥様からも皆様によろしく、奥様は電話口で涙しておられたご様子」との感動的な手紙を頂いた。
 関戸駅長のご尽力により、その後永井セエ様と連絡し合い、今までまったく空自だったアリオン創立当時の貴重な写真を発見し、「アリオン70年史」の巻頭グラビアを飾ることが出来た。これでアリオンはもう永井敏男氏を永遠に忘れることはなくなった。
 しかし、創立の経緯について直接ヒアリングするという夢は完全に絶たれた。あと10年早く編集作業に着手していたらと途方に暮れていたある日、法政大学大学史編纂室のアドバイスもあって、法政大学新聞(1)を調べてみたところ、アリオン創立の経緯を伝える記事を発見した。そのルーツは「聖歌団」であった。ミッションスクールなら聖歌隊があって、そこには自然とコーラスの始まる土壌が存在するが、その前身が法律学校である法政の「聖歌団」とはいかなるものであったのだろうか。

 法政大学YMCAは1930年(昭和5)に創立七周年記念講演(この時、アリオンは後援し歌っている)を実行しているので1923年(大正12)の創立となる。「東京キリスト教青年会百年史」(2)によると、1925(大正14)年12月に東京市内と近郊の大学・専門学校・高等学校の各青年会は、「東京学生基督教育年会連盟」を組織し、この中に法政大学も入っていることが記されている。
 この法政大学YMCAに「聖歌団」が組織されていて、アリオンの発起人であるオルガニストの木村はそのキーメンバーであったと想像される。そして今回、実際に永井セエ様より、敏男氏が創立当時のアリオンについて「信者でもないのに、教会にいって賛美歌を歌っていた」と語っていたことを思い出され、手紙を頂いたことで証明された。

(1)「法政大学新聞」第10号。1931年4月30日
(2)「東京キリスト教青年会百年史」 斎藤 実著1980年3月
(3)YMCA[Young Men’s Christian Association]
キリスト教青年会。1844年にイギリスのロンドンで誕生。ジョージ・ウィリアムズ(YMCAの創立者)を中心とする12名の青年が、産業革命の進む中、非人間的な状況に多くの青年が追い込まれていくのに対し、これを自分たちの手で改善することを願い、青年を啓発する活動を始めたのが発端である。
日本では、1880年(明治13)に東京にはじめて設立された。

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●1928年(昭和3)アリオン誕生●

 1931年(昭和6)4月30日発行の法政大学新聞「学会展望、アリオンコーラスの巻」は、アリオン創立の経緯を、次の様に伝えている。

 「この合唱団の誕生は昭和3年の10月で、当時法政には聖歌団なるものが創立されていて、兎も角もコーラスとしての形は備えていたが、これは教師の都合で遂に一学期で解散の憂き目をみてしまった。その時のオルガニスト木村君があきらめ切れなくて合唱団創立の話を、現に指揮をやっている盛田実君の所へ持ち込んで来た。同君も、二つ返事で引き受けはしたものの、オイそれとは行かず難産の形であったものを、学生監の藤崎実先生が趣味を同じうせられる所から自分で産婆役を買って出られ、始めてここにアリオン合唱団の設立をみる運びにまで進み、同時に教師として、国民交響楽団の小松平五郎氏を得た。会長に入江教授(1)、顧問に藤崎先生(2)を戴き大体の献立も出来上がり創立許可後、会員募集の掲示を見て集まった老は可成りの数に上ったが、これ等は多く唯、音楽の美名にげん惑されたいはゆるえせ声楽家の群れで真の研究的態度を持って踏みとどまった者は僅か十名に過ぎなかった。だがこれとても全くの素人で本譜の読み方さえも充分分からないというのが、ぶちまけた話で、それだけにその熱心さは全く大変なものだった。11月に上六小学校で練習を始めてから翌4年の7月までは全く文字通りのなかず飛ばずの不遇な涙と汗のいく日かが続いている。・・」

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1928年(昭和3年)10月 アリオンコール創立

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法政大学学友会報 第9号 昭和4年12月12日

以上がアリオン創立の経緯である。アリオンは1927年~28年(昭和2~3)、大学予科に入学したばかりの若い木村、盛田、永井(旧姓猪股)、錦織等によって設立された。(3)そして彼等が卒業する1933年(昭和8)までの草創期5年間は、アリオンにとって戦前で最も充実した時期でもあった。
 なお10月、奇しくもアリオンと似た名前の「オリオンコール」が創立している。(4)社会人の合唱団であるが、その後の活躍は目覚ましく、翌1929年の第3回合唱祭に4位、第4回2位、第5回2期、そしてついに第6回(昭和7)で優勝した。オリオンコールは、1935年(昭和10)に女声合唱団ルナ・コールと合併し、混声合唱団ルナ・オリオンコールとなった。

(1)入江直祐 英語(法政大学百年史 p637)
(2)藤崎 実 本学の卒業生で、昭和4年に法政予科講師。昭和15年には図書館長就任。
(3)木村 繁 青森出身。昭和2年大学予科一部入学、同5年卒、昭和8年、法文学部文学科卒
 盛田 実 愛知出身。昭和2年大学予科一部入学、同5年卒、昭和8年、経済学部商業学科卒
 猪股敏男 北海道出身。昭和3年大学予科二部入学、同5年卒、昭和8年、法文学部法律学科卒
 錦織 勤 島根出身。昭和3年大学予科二部入学、同5年卒、昭和8年、文学部法律学科卒
(4)オリオンコール男声合唱団。昭和3年10月創立。定指揮者はなく、各国男声合唱曲の研究発表をなす。大塚楠男、高見三夫、横田 孝、鳴海信輔外16名。(「音楽年鑑」昭和6年版)

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●1929年(昭和4)なかず飛ばずの日々が続く●

 続けて法政大学新聞「学会展望」をもとに1929年(昭和4)のアリオンの活動を追ってみよう。1928年(昭和3)11月から上六小学校で練習を始めたものの、7月まで全く文字通り“なかず飛ばず”の不遇な涙と汗の日々が続く。練習場も牛込の小松平五邸宅から、6月には更に校内の第二校舎第4番教室に移った。そして7月6日、ついにアリオンの記念すべき初ステージがやってきた。新宿有隣館における児童慰安演習会である。団員たちは“一様に感激の涙で曇らせた”と記している。
 9月には、日比谷の民謡祭、同じく27日、音楽堂の大正大学児童研究会主催「音楽と舞踊の夕」、10月には大日本児童研究会主催「合唱と映画の夕」に出演した。続いて11月に、日本青年館での第3回合唱祭に出場し、課題曲「霊泉」(メンデルスゾーン曲)、選択曲「ブラームスの子守歌」を歌った。しかし、このプログラムに“アリオン”の名はない。
男声合唱の出場は6団体、すなわち国響付属国民男声合唱団、東京高等学校合唱団、成蹊高等学校合唱団、オリオンコール、東京リーダーターフェル、立教大学グリークラブである。ところがプログラムをよくみると国響付属国民男声合唱団は、小松平五郎の指揮、自由曲「子守歌(ブラームス曲)」であり、設立後1年のアリオンは、この中で一緒に歌ったのであろう。ちなみに第1位は成蹊高等学校合唱団、第2位調布高等女学校音楽部、第3位銅羅合唱団であった。尚、鋼羅合唱団は、5月に小松清が邦人作品の演奏を行う目的で設立したばかりでの入賞であった。なおこの10月、日比谷公会堂が開館した。ゴシック様式の公会堂で座席数2700を持つ日本で初めての本格的なホールで、合唱祭も翌年から日比谷公会堂で行われることになる。
 12月12日の法政大学学友会報第9号に、「その第一声 アリオン合唱団の第一回公演」という小さな記事が出た。これはアリオンに関する最初の活動記録である。第一回公演の案内、及び団員募集の広告であるが、これによっても1928年(昭和3)11月に“幾多の困難”として闘って創立したこと、当時国民交響楽団の指揮者として活躍していた小松平五郎の指導を受けていたことがわかる。(1)

(1)法政大学学友会報1928年(昭和3)新聞学会発足。1929年(昭和4)に「法政大学 学友会報」創刊される。法政大学新聞の前身。

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法政大学新聞 第10号 昭和6年4月30日

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●1930年(昭和5)第1回アリオン発表会●

 1月、新校歌・応援歌が制定された。これは佐藤春夫教授の作詩で、ヨーロッパ旅行中の近衛秀麿がシベリア鉄道の車中で作曲したといわれている。
 2月14日の法政大学学友会報(第11号)に、次のようなアリオン関連の記事が載った。短いのでそのまま掲載しよう。
 「この程、麹町区三番町63河野方に練習所を設け、目下盛んに練習中。陽春を期して第1回発表会を催す予定である。尚幹事は森田(盛田)実君、高橋力三君」この麹町の練習所は半年余りしか続かなかったらしく、7月からは上番小学校講堂へと転々としてスタジオを変えていった。
 ところで文中の盛田実は「学会展望」によって、初代学生指揮者であることがわかった。この頃立教グリークラブの学生指揮者は、戦後アリオンの指揮者となった松波碇四郎氏(昭和9年卒)である。松波先生は、1959年(昭和34)のアリオン部報に「アリオンコールと私」と超して、「昭和6~7年頃アリオンの演奏会に“おてつだい”に行ったこと、その時の責任者兼指揮者が盛田実という人で自ら作曲した歌もあった」と記している。

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1930年(昭和5年)5月22日 法政大学新聞 第1号

 2月にはまた、林柳波作詩、小松平五郎作曲「ぶち込め」を次内勝の独唱、アリオン合唱団でコロンビアレコードに吹き込んだ。5月は2回、三越ホールに出演した。5月10日、法政大学YMCAの創立7周年記念式典が新講堂で行われた。講演に続き、後援したアリオンは次の演奏を行った。「朝日を待ちて」「タンホイザー巡礼行進曲」「黄昏の□」「春の歌」「雲雀(メンデルスゾーン曲)」「ハレルヤ(ヘンデル曲)」「幻想曲ト短調」「祈り」「第九シンフォニー(ベートーベン曲)」「自由の鐘」「御民の君なる」「静けきよ」等である。今回の調査で第1回公演を 確認出来たものの、演奏曲目までは発見出来なかった。アリオンの第1回公演まであと1カ月という時期に歌われたこれらの曲は、創立当時のアリオンのレパートリーを知る重要な記録である。

 なお、この第1回公演には、既述の法政大学学友会報(1)に法政大学YMCAの後援があったことが記されているが、丁度この年、東京YMCAに「東京YMCAグリークラブ(2)」が組織された。今回東京YMCA資料室のご協力もあり、機関誌「東京青年」のクラブ紹介欄等で指揮者津川主一(3)の熱心な指導振りもわかった。そのためYMCAの後援とは、グリークラブの賛助出演の可能性も考えられる。
 「関西学院グリークラブ八十年史」(4)の大正7年をみると、津川主一氏は1年生ですでにグリークラブの技術指導者であったが、グリークラブの活動方針の違いから、オルフェオ・ソサエティという分派を作った。このオルフェオ・ソサエティは、対外演奏も積極的で「大阪はもちろん、東京のライオン歯磨(東京YMCAの有力な会員であった)の工場を訪れ、昼休み時間を利用して従業員に合唱を聞かせたりした。」と記されている。

 6月8日、午後6時半から新講堂でアリオンは、「音楽と舞踊の夕」と銘打って、待望の第一回研究発表会を開催した。法政大学新聞は「創設以来日なほ浅きにも拘らず、多数の男女音楽愛好家殺到するの盛況で団員諸君の努力がうかがわれた。」と報じた。演奏曲目は、残念ながら現在は不明である。
 この頃からアリオンは対外的にも認められて、10月には、日本青年館での石井漠舞踊「ペールギュント」の合唱に参加した。石井漠は、作曲家であり全日本合唱連盟名誉会長石井歓の父親である。(5)黒柳徹子は「窓ぎわのトットちゃん」で、“日本の自由舞踊の創始者であり、この小さな町に止まる東横線の駅に「自由ヶ丘」という名前をつけた人」と記している。11月には、「グランドオペラの夕」で阿部「フィガロの結婚」、松平里子「マダム・バタフライ」(6)の合唱を完全にやり終えた、と記している。松平は、ヴォーカp3002.gif法政大学音楽部の練習風景ル・フォア合唱団の主宰者であるが、この演奏を最後に、合唱団の運営を内田栄一(7)、平井美奈子(8)、に託し渡欧した。なお今回、永井様の手紙がきっかけとなり、平井美奈子先生の96歳の誕生日(3月31日)に、碑文谷公園のそばのご自宅への訪問が実現し、当時の貴重な写莫、新聞、プログラム等をご提供頂いた。「法政大学の音楽部は、瀬戸口藤吉氏の指揮で大変充実していた(写真)」とのことで、永井様のメッセージに登場するご主人は誠(ただし)氏で、1927年(昭和2経)法政大学の卒業生、しかも音楽部の創立メンバーの1人でヴァイオリンを担当していた。そんな関係でアリオンメンも御宅に出入りしていたらしい。

(1)1929年(昭和4)12月12日 法政大学学友会報 第9号
(2)東京YMCAグリークラブ YルICA所属の男声合唱団。合唱音楽の研究普及を目的とし、1930年(昭和5)組織さる。随時、演奏会開催、青年会各種の事業に出演。
 幹事 田口栄太郎、指揮者 津川主一(昭和15年版 音楽年鑑)
(3)津川主一 合唱指揮者 牧師1896年11月16日~1971年5月3日。大正10年、関西学院神学部卒 大正11年麻布美普協会の牧師となり、また帝国音楽学院、青山学院、文化学院、東京交響合唱団などで合唱を指導する。昭和22年東京バッハ・ヘンデル協会を設立、会長。また自宅に教会音楽研究所を開き、東京オラリスト協会を設立するなどわが国の合唱音楽を開拓した。全日本合唱連盟理事、関東合唱連盟名誉会長をつとめ、また「合唱名曲全集」「世界合唱曲集」などを編集した。
(4)「関西学院グリークラブ八十年史」山中源也著1981年(昭和56)p.43
(5)「石井 漠」 石井 歓著。未来社1994。石井 漢書「私の舞踊生活」によるとグリーク作曲の「ペールギュント組曲」は、昭和2年の作品。
(6)松平里子 ソプラノ 1896年(明治29)7月31日~1931年(昭和6)9月22日。自由学園、精華高等女学校及び日本大学芸術科講師。東京音楽学校声楽科出身。ペツオールドに師事。尚、同月15日には、渡欧告別演奏会を開催、オペラ研究のため外遊したが、翌6年、現地で亡くなった。
(7)内田栄一 バリトン1901年(明治34)3月25日~1985年(昭和60)7月27日。1925年東京音楽学校本科卒。
  主宰者松平里子の渡欧後、平井美奈子らとヴォーカルフォア合唱団を運営した。東邦音大教授、上野学園講師、1983年、勲四等旭日小綬章。
(8)平井美奈子 ソプラノ 1902年(明治35)3月31日生。1923年東京音楽学校本科卒1925年同研究科卒、主宰者松平里子の渡欧後、内田栄一らとヴォーカルフォア合唱団を運営した。東京学芸大学名誉教授、上野学園大学名誉教授。1974年、勲三等瑞宝章。著書「楽聖物語」など。

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●1931年(昭和6)第5回合唱祭に初陣●

 引き続き「学会展望」の記事より活動を追ってみると、「4月には20名に余る熱心な新人部員を迎え、部員40名の堂々たる大合唱団に膨れた。テナーに盛田、木下、高橋の蒼々を擁しバスでは太田、錦織の諸君が傑出している。特に太田章君の如きは、コーラス中の白眉で、あの立派な体格にして初めて可能な、豊富な声量を持ち、ヴォーカリストとしての輝かしい未来を約束されている。」と記されている。
 5月29日、法政大学航空部は「青年日本号」と命名された飛行機で、日本で最初の学生による訪欧飛行に出発した。出発に先立ち12日午後6時より日比谷公園新音楽堂にて、日本学生航空連盟、朝日新聞社主催の訪欧飛行出発式が行われた。小泉又二郎逓信大臣、イタリア大使等の祝辞に続き、ソプラノ平井美奈子は、「離陸の歌(佐藤春夫作)」歌劇「ミニヨン」のポロネーズ(トーマ曲)を独唱した。続いて、音楽部は作間 毅指揮で、「校歌」「カルメンシビル」「アルルの女」「離陸の歌(会衆斉唱)」そして自作「ローマ目指して」を演奏した。

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1930年(昭和5)1月23日 法政大学学友会報 第10号 

 更に、21日(木)午後7時25分、JOAK(1)のゴールデンアワーに、操縦学生の栗村盛孝の講演と佐藤春夫から送られた「離陸の歌」をアリオンが歌い全国に放送された。これは今回、永井様宅から発見された録音風景写真をもとに、NHK放送博物館の番組確定表で日時も確認したものである。

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1931年(昭和6年)5月21日 JOAK録音風景

 6月10日、日比谷公会堂でオリンピック派遣後援会主催による六大学管弦楽大演奏会が行われた。但し、一校は帝大ではなく商大であった。法政は瀬戸口藤吉の指揮で、自身の作曲した校歌(お濠に影さして)と前年に近衛秀麿が作曲した新しい校歌(若き我らが)、序曲(ロッシーニ曲)、野球行進曲(瀬戸口藤吉曲)を演奏した。(2)
 尚、立教大学ではグリークラブが「校歌」等を演奏しているので、アリオンも「校歌」を歌った可能性がある。しかし、今回は確認出来なかった。(3)
 11月15日、午後7時から新講堂でアリオンは、第二回研究発表として「合唱と独唱の夕」を催した。当夜の演奏会について法政大学新聞は、“歌姫も酔う”との粋な見出しで「開会前より、多数の男女声楽ファンが詰めかけ、まづ全団員の「君が代」の合唱によって始まり、プログラムの進むにつれ、ことごとく聴衆を魅了した。なかでも当固持製の錦織君作詞「法政節」は、嵐の如き喝采を博し最後に校歌の合唱があり、9時半、非常な盛会裏に閉会した。」と報じた。曲目は不明。指揮は関口宇之祐氏(4)を迎えている。
なお、開口氏はまだ25歳と若く、3月18日に行われた国立東京高等音楽院主催「第一回バッハ記念演奏会」の第2ステージ「崇高なるミサロ短調」で、バス独唱を担当した若手のホープであった。

p3101.gif1931年(昭和6年)11月20日 法政大学新聞 第17号
11月29日、アリオンは、日比谷公会堂で行われた第5回合唱祭に初出場、関口宇之祐の指揮で課題曲「科の木(菩提樹)」(シューベルト曲)と選択曲「剣の唄」(ウェーバー曲)を演奏した。法政大学新聞(5)によると、アリオンは1,900点で第15位、第1位は国立高等音楽院の芙蓉会合唱団で、2,413点。採点は瀬戸口藤吉、山田耕作、伊庭孝、牛山充、堀内敬三、本居長世、中山普平、野村光一等日本楽界の権威27名で各氏の持点は100点であった。また、太田、高橋、錦織、池部、鷲見、小口の六君は法、立、帝よりなる東京メンネルコールにも出演、2,054点で第13位となった。

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新聞は続けて、この合唱祭を機縁に東京六大学合唱連盟の結成に向けて、各校より3名づつ委員を出して準備中である、と報じている。これは結局、幻に終わる。

p3103.gif1931年(昭和6年) 12月9日 法政大学新聞 第18号

(1)昭和6年版 NHK「確定番組」より 日本放送協会(放送博物館)
(2)「慶応ワグネル75年史」1968年(昭和43)
(3)「立教大学グリークラブ50年史(1964年一昭和39)」では、6月11日になっている
(4)開口 宇之祐1906年(明治39)12月26日生まれ。バリトン 東京高等音楽学院本科声楽部卒業。研究科終了。矢田部勤吉門下。明星学院、松竹少女歌劇学校及び東京高等音楽学院講師。1934年(昭和9)10月 第1回リサイタルを開く。
(5)法政大学新聞 第18号1931年(昭和6)12月9日

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●1932年(昭和7)JOAKからジャズ合唱放送●

 2月2~3日、アリオンは日比谷公会堂で、新響の分身であるコロナオーケストラ(1)に加わり、シンフォニック・ジャズの合唱を公開することになり、目下赤坂三会堂にて練習中、との記事が法政大学新聞に出た。そして、ついに2月27日、午後9時よりJOAK(2)にて、アリオンはコロナオーケストラとジャズ合唱を放送した。法政大学新聞は、“対外的にも素晴らしい充実振りを見せているアリオン合唱団”と賞賛した。引き続き六大学合唱連盟結成に向けた記事も報じられている。

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1932年(昭和7)1月27日 法政大学新聞 第19号
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1932年(昭和7)2月28日 法政大学新聞 第20号
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1932年(昭和7)6月24日 法政大学新聞 第24号

法政大学新聞は、「6月16日、六大学合唱連盟が結成され、毎秋に定期合唱会を開催することになった。」と報じている。なお、最後に7月10日~26日まで平塚での合宿も伝えている。
 11月11日、明大記念館にて定期混声会に出演した。この年、明治大学混声合唱団が創立している(3)。
 11月17日、アリオンは、国民講堂で午後6時より第3回発表会を開催した(グラビア写真参照)。指揮は関口宇之祐、賛助出演に木村文子の独唱、鹿島舞踊研究所(4)があった。演奏曲は不明である。

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1932年(昭和7)11月16日 法政大学新聞 第28号
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1932年(昭和7)9月30日 法政大学新聞 第26号

 11月27日、日比谷公会堂で行われた第6回、競演合唱祭に出場した。課題曲は、井上武士作詞、シュルツ作曲の「野路の夕」。選択曲は、井上武士作詞、シュタイン作曲の「ふなで」を、開口字之祐の指揮で演奏した。第1位はオリオンコール。第2位ポリヒムニア・コール、第3位は成蹊高等学校合唱団であった。なお、立教大学グリークラブは、戦後アリオンの指揮者となった松波碇四郎の指揮で、選択曲は「ローレライ」を演奏した。

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(1)コロナ・オーケストラ 純職業的の管弦楽団体で、約30名より成り、通常の合奏、及びジャズ合奏を行う。代表者 伊藤 昇。(昭和11年版 音楽年鑑より)
(2)JOAK 2月27日(土)放送番組(昭和7年版 NHK放送博物館)
后0.05 管弦楽 コロナ・オーケストラ 指揮 佐藤清吉
 1.歌劇「ヴイルヘルムテル」序曲 ロッシーニ作曲 クリックマン編曲
 2.愛の挨拶 エルカ一作曲 ポーラ編曲
 3.円舞曲「一千一夜物語」シュトラウス作曲 マッスバウム編曲
 4.コンキタ アントニニ作曲
 5.喜歌曲「軍艦ビナフォア」抜粋 サリヴァン作曲 マシウス編曲
(3)明治大学混声合唱団 「音楽年鑑」昭和11年版 p.211
(4)鹿島光滋 鹿島光滋舞踊研究所長。1900年(明治33)2月21日生まれ。松竹ビュル・ブリヤント部員。東洋音楽校卒業後、高田雅夫に師事し、松竹楽劇部、日劇音楽舞踊学校教師を経て現在に至る。1933年9月エノケンー座の振付に当たる。(昭和9年版「舞踊関係団体一覧」より)

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●1933年(昭和8)第4回アリオン発表会●

 6月21日、アリオンは日比谷公会堂で行われた関東男声合唱連盟主催、山口隆俊企画による「日独交歓合唱演奏会」に出場した。アリオンは、合同演奏の「神の栄光」(ベートベン)「うるさき人々」「薮井竹庵国手で御坐る」(以上ツェルター)「新暁」(宮城道雄)「巡礼の合唱」(ワグナー)の5曲を歌った。

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1933年(昭和8)7月4日 法政大学新聞 第35号

 ついで、10月6日、アリオンは関東男声合唱連盟のメンバーと合同でラジオ放送に参加した。演奏曲は、山口隆俊指揮「ドイツ国歌」「我が里」(シューベルト)、小松清指揮「神の栄光」(ベートーベン)「夜の合唱」(シューベルト)、橋本国彦指揮、作曲の「男声合唱とピアノへの小協奏曲より」、外山国彦指揮「新暁」(宮城道雄)「君が代」である。法政大学新聞によると、アリオンは「君が代」「ドイツ国歌」「新暁」の3曲を歌った。

奇しくもこの10月、ドイツは日本(3月)に続き国際連盟を脱退した。12月にはイタリアが脱退し音楽ばかりでなく、政治的にも日独伊三国の結びつきが強まり国際社会からの孤立へと進んでいった。

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1933年(昭和8)9月28日 法政大学新聞 第36号

 さらに法政大学新聞は、アリオンの第4回発表会も報じている。11月22日に市政講堂でリラ・ニナハマダ姉妹(1~2)の特別出演を得ての「舞踊と音楽の夕」開催である。なお、会員券は80銭、50銭でプレイガイド、神田三省堂で発売中であることも伝えている。

 (1)ニナ・ハマダ タップ。1927年(昭和2)8月19日生まれ。ハリウッド・ファンチョン アマゴ・ダンシングスクールに学ぶ。ポール・フォルツ、フィリップに師事。
 (2)リラ・ハマダ タップ。1921年(大正10)9月25日生まれ。同上。「近代日本音楽年鑑 舞踊人名録」昭和15年版 p.338

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●1934年(昭和9)第8回 読演合唱祭に出場●

 1月1日、宝塚少女歌劇の東京進出の舞台として東京宝塚劇場、2月1日には日比谷映画劇場が開場した。前年暮れに日本劇場(日劇)が完成しており、新しい娯楽街、有楽町、日比谷が出来た。一方アリオンについては、11月まで活動記録が見つからない。これは前年の創立メンバーの卒業、前年秋からの法政騒動等の影響を受け、アリオンの演奏活動が停滞したと思われる。
 11月25日午前10時、アリオンは、2年振りに日比谷公会堂で行われた第8回競演合唱祭に出場した。合唱祭は、まず国民音楽協会理事長の小松耕輔の開会の辞で始まった。つづいて牛塚虎太郎東京市長挨拶と昨年度優勝の関西学院グリークラブが賞牌を返還したあと、参加22団体の演奏に入った。
 アリオンは、2番目のステージであった。片山将臣(山口県出身。昭和10。経済卒)の指揮で、男声合唱の課題曲「霊泉」(小林愛推作詞、メンデルスゾーン曲)、選択曲「狩人の別れ」(メンデルスゾーン曲)を歌った。成績は関西学院グリークラブが2,220点で昨年に続き連覇した。なお第2位は東京リーダーターフエル フェライン(2,139点)、第3位ホワイト合唱団(2,109点)であった。(1)(2)

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(1)「東京リーダーターフェル70年史」1995年(平成7)4月 p19
(2)「関西学院グリークラブ八十年史」 山中源也著1981年(昭和56)p139-140

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●1935年(昭和10)アリオン・ジャズバンド誕生●

 10月16日の法政大学新聞は、アリオンの活躍と充実、躍進ぶりを伝えている。しかし、今回その活躍を示す記録の発見は、わずか2件であった。

p3302.gif1935年(昭和10)10月16日 法政大学新聞 第57号 第1は、アリオン・ジャズバンドの誕生である。既述の通りアリオンは、1932年(昭和7)にコロナオーケストラに加わり、日比谷公会堂でのジャズ合唱演奏、JOAKの放送といち早く時代の潮流に乗った活動を行っている。今回は、サロンジャズ・バンドでのスタートであるが、本格的編成のバンドを目指している、と報じられている。
 第2は、第9回競演・合唱祭への出場である。11月24日、会場は日比谷公会堂で午前10時に開演した。参加は20団体でアリオンは9番目のステージである。上郷哲夫(山口出身。昭和11。法文卒)の指揮で、男声合唱の課題曲「神殿」(近藤朔風訳、クロイツァー曲、津川主一編曲)、選択曲「進めや同胞」(津川圭一編曲)を歌った。

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1935年(昭和10)10月16日

 法政大学新聞 第57号(2)出演者は、孟、児玉、藤井、横井、石井(以上T1)、金、服部、平岩、野沢、川崎、O師(以上T2)、上郷、加計、田中、金、題(以上B1)、迎、青木林、朴、小西、金の21人であった。ところで、選択曲の「進めや同胞」は法政大学新聞ではポーランド民謡と紹介しているが、奇しくもこの時、三連覇を果たした関西学院グリークラブの選択曲「ウポイ」(チェッコ・スロヴァキヤ民謡)の日本語版である。「ウボイ」は、大正8年チェコ軍から関西学院グリークラブが譲り受けた門外不出の秘曲として有名であり、多くの男声合唱団で愛唱されている。なお、1974年、原曲はイヴァン・ザイツ作曲のオペラ「ニコラ・スビク、ズリンスキー」のフィナーレによるものと判明した。

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 関学OBの津川圭一は秘曲ではあるものの名曲であるこの曲を、日本語訳でこの世に紹介したのではないかと想像される。
津川の日本語訳は、「草競馬」「夢路より」など有名である。例えば「愛唱名歌集(野ばら社)」には、「おおスザンナ」などのフォスター作品、ロシア民謡が14曲も収められている。
 ちなみに「関西学院グリークラブ八十年史」は、この3連勝の祝賀会が、OBであり、当日の審査員でもある山田耕筰、津川主一も参加し感激のうちに閉会となった、と記している。(3)
 今回の調査では、この1935年(昭和10)の第9回競演合唱祭出場記録を最後に、その後の活動記録を発見出来なかった。“消滅寸前”との言い伝えもあり、活動は停滞していたものと想像される。そして消滅寸前のアリオンを立て直したのが、OB会名誉会長の小島休景である。
 なお、関西学院グリークラブ三連勝後の合唱祭は、第10~12回は玉川学園混声合唱団、第13~15回は東京リーダーターフエルフェライン(現東京リーダーターフェル1925)がそれぞれ三年連続優勝の偉業を達成した。しかし、翌年の第16回(昭和17)は、時あたかも戦時下にあり、これをもって競演合唱祭は中止された。

                   (森田 修)

(1)音楽年鑑 昭和5年版 ジャズ音楽の流行(p.44)
  ジャズは二三年来の産物であるが昨年あたりから流行は絶項に達しこれ迄は単にダンスホールの伴奏、カフェの奏楽に過ぎなかったのが今日ではステージ音楽会にまで進出し、更に蓄音器、レコード界の寵児となってしまった。従ってジャズ・バンドは雨後の筍の如く組織され‥・
(2)「東京リーダーターフェル70年史」1995年(平成7)4月 p.20
(3)「関西学院グリークラブ八十年史」 山中源也著1981年(昭和粥)p.145~147

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校歌の誕生

 法政大学で一応「校歌」とよばれたものは、大正13年、当時予科の英語の教授だった為光直経の作詞による「お嫁に影うつして」であった。その頃応援団が組織された早稲田の「都の西北」にどうも圧倒されがちだというので、学生全体からもっと力強い校歌が要望されていた。たまたま昭和4年から5年にかけて「法政スピル運動」が起ったとき、その一環として新しい校歌作製の声が全学生から叫ばれ、学生の中から委員が選出された。やがて学生・教職員から寄付金が集められ、学生の投票によって作詞は佐藤春夫(当時、本学予科講師)、作曲は近衛秀麿に依頼することに決定した。最初に作った歌詞は『わかき我らが 血潮の限り ここに‥…・よき師よき友つどひ結びて 勤勉快活 高邁明朗 世紀の道に 刈るや荊 法政大学 おおわが母校』というかたいものであった。近衛氏は「これでは作曲できぬ」とクレームをつけ、両氏の間で激しい論争が起ったが、これを経て今日の歌詞ができあがった。まもなく近衛氏は洋行の途につき、シベリア鉄道の車中で作曲がなされ、楽譜は遠くベルリンから届けられた。
 誕生以来すでに半世紀を経た法政大学校歌は、悠久の思いをたたえ、今もなお自由と進歩の象徴として、声高らかに歌われ続けている。

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「若きわれらが命のかぎり ここに捧げて愛する母校」

 大学校歌の中でも名曲といわれる法政大学校歌が制定されたのは1931(昭和6)年1月のこと。それまでは、現在行進曲として歌われている「名 大いなれ法政」が校歌でした。1923(大正12)年、旧制大学令に基づく法政大学としての新たなスタートという、名実ともに大学としての昂揚を背景に、為光直経作詞、瀬戸口藤吉作曲による「法政大学新作校歌」(現「名 大いなれ法政」)が誕生したのでした。

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近衛秀麿(左)、佐藤春夫(右)

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 市ケ谷キャンパスへの移転、新校舎竣工、学部改組と、大正から昭和にかけてのさらなる発展拡充は新校歌作成運動を巻き起こし、1929(昭和4)年、学生の間に校歌作成委員会が結成されました。当時の学生委員倉田英氏によれば、校歌をつくろうという考えは、全学生の総意であり、「学生委員が、帽子を持って『校歌の費用を寄付してくれ』と学生の間をまわると、すぐ帽子は銀貨でいっぱいになった」といいます。
 学生の投票により、作詞は当時本学予科講師だった佐藤春夫、作曲は近衛秀麿に決定しました。ところが、「佐藤先生が最初に作った歌詞は『わかき我らが 血潮のかぎり ここに捧げて愛する母校………よき師よき友 つどひ結びて 勤勉快活 高邁明朗 世紀の道に 刈るや荊 法政大学 おゝわが母校』といったかたい文句であった。近衛はこれを見て『これでは作曲できぬ』とクレームをつけ2人の間に激しい論争があった。その後佐藤先生は未完のまま郷里熊野に隠退されたので、私が熊野まで行って歌詞を貰って来た。近衛さんが作曲したのは洋行する途中のシベリア鉄道の車中であった」(倉田氏)
 この校歌が神宮球場で初めて歌われた1930(昭和5)年秋、本学野球部は東京六大学野球で初の優勝を成し遂げました。翌31年8月には本学航空部の「青年日本号」が訪欧飛行に成功し、目的地ローマに到達して「世紀の壮挙」と賞賛されました。まさに「青年日本の代表者」として意気軒昂(けんこう)な時代でした。

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近衛秀麿筆といわれる新校歌楽譜(1930年)

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佐藤が近衛に渡した最初の歌詞原稿
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2人の間に論争が続き、佐藤が近衛に送った歌詞の説明の文面(左)、佐藤春夫自筆の新校歌歌詞(1930年)(右)

(法政大学ホームページより)
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 1928(昭和3)年の「法政大学新聞」に「法政スピリット」という言葉が初登場以降、「法政スピル(スピリットの意)」「法政気質」という言葉が紙面に散見され、母校のアイデンティティーを探求して議論を重ねていた学生たちの姿が伝わってきます。当時の学生が法政の校風は何ですか、と教員に尋ねたところ、校風は君たち学生が作り上げればいいじゃないか、と叱咤激励されたというエピソードも残っています。

 やがて母校に誇りと愛着を抱く学生が、自分たちの手で法政の校風を醸成していこうとする機運が高まる中、「法政スピル」を象徴するものとして、新校歌を待望する声が沸き上がります。そして1929(昭和4)年、応援団の学生を中心として「新学生歌作成準備委員会」が設立されました。当時、すでに校歌は存在していましたが(現在は行進曲として使われている「名 大いなれ法政」)、学生たちは「曲調が賛美歌のようで盛り上がりに欠ける」と感じていたようです。そのためスポーツ応援の際には他大学の校歌に対抗し、気分を高揚させる校歌を必要としていたのでしょう。

 しかし当初は歌詞を学生公募するも意見の一致を見ることはなく、その後も作詞を依頼した佐藤春夫と作曲家・近衛秀麿の衝突などもあり、校歌制作は難航します(※)。当時の大学新聞には「法政スピル高揚の新校歌の完成近し」なる記事まで登場。委員が気をもむ全学生に向けて校歌の進捗状況を子細に説明しています。
 紆余曲折の末、ようやく校歌が完成した1930(昭和5)年、本学野球部は念願の六大学野球初優勝を果たします。この快挙に、応援に駆けつけた満場の本学学生が沸きかえるなか、新校歌が音吐朗々と初披露されたのです。

(法政大学ホームページより)