印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |

アリオン100.jpg法政大学アリオンコール HISTORY

第二章 アリオンの再建(1936~1941年頃)

〈アリオンの再建〉

 昭和10年代前半は、「戦争(宣戦布告してはじめて戦争という)」と言ってもおかしくない程の規模の戦闘が、しばしばソ満(旧ソ連邦と現在の中国東北部)国境や、中国の諸所・方々に勃発していた時代であり、学生の好むと好まぎるとにかかわらず、個人の自由意志も半ば無視されていた。そのような情勢にあって、ありがたいことに、英語会、法学研究会、アリオンコール等々には、学生がほぼ個人意志に近いところで参加できた。
 たまたま英語会の会長が英文学の名物教授・為光直経先生であり、またアリオンの会長でもあられた。当時、アリオンは、前述の時代的背景のもとで音楽愛好家は軟派である、と極言されていたこともあって、参加をむしろ敬遠する風潮があり、消滅寸前であった。そのような折、為光先生より私(小島)に「アリオンを何とかしてくれないか」とのお声が掛かり、失礼な申しようであるが、渋々、お受けした次第である。まさか、それが終世どっぷり入り浸るに至るとは、思いもよらぬことであった。

p3501.gif
1940年(昭和15年)6月5日 法政大学新聞 第117号

 戦雲は日に日に急を告げ、ただならぬ気配を濃く、軍隊が続々と中国大陸へ進駐しつつあった。右翼、ことに肩で風を切る国粋主義者たちが横行する時代だったので、「歌をうたうなんて・・・」と軟派集団と見られるのも当然であったかもしれないが、声を掛けてもなかなか応じてくれる者なかったので、まずは英語会のメンバーの中よりと、半ば強制的にアリオンに参加してもらった。いわゆる、二足のワラジを履いてもらったのである。

く日比谷公会堂で「独唱と合唱の会」開催〉

 時あたかも紀元2600年を迎えんとし、世は挙げて国民精神高揚のため、この祝典行事準備に余念のない時でもあった。アリオンにとっても好機到来、とばかり、高円寺の為光先生のお宅に幹部諸兄や音楽学校卒のお嬢様にも参加していただき、鳩首協議し、「紀元2600年奉祝記念演奏会」の旗印のもとに活動を展開することにした。
 軍人を頂点に、「おい、こら!」の横暴警察官、それに次ぐ政治家、官僚跋扈の時代にあっても、学生と新聞記者は「無冠の帝王」と言われていたこともあって、どうせやるなら、でっかいことをやろう、と衆議一決、当時、音楽界のみならず、社会全般にも神様的存在であった「我らがテナー、藤原義江氏」に白羽の矢を立てた。その他、ソプラノ関種子、アリオンの指揮者で新進気鋭の声楽家、バス富田義助の諸先生に出演を依頼、賛助出演としてヴォーカル・フォア合唱団(オペラ開催の時には藤原歌劇団合唱部に早替わりする。)をお願いした。
 話は前後するが、当時、藤原義江氏に依頼することは、先ず経済的にも容易なことではなく、まして学生の分際ではとても望むべきことではなかった。そんなこんなで、学校当局に許可を求めると、さらには、会場が「日比谷公会堂」と聞いて大笑いされ、あげくの果て、「お前たち頭がどうかしているのではないか」と言われた。現在の日比谷はともかく、当時は、超一流人かそれに類する企画のみに依る会場であり、学生の主催する例など皆無であったのでそのように言われたのも、むべなるかな、と言わぎるを得なかった。

p3502.gif
音楽に飢えた人々が日比谷公会堂を埋め尽くした

しかし、藤原さんの方では「オペラ・アイーダ」が企画されつつあり、ことに、合唱には大人数を要するオペラとあって、コーラス要員集めに苦慮されていたこともあり、こちらのお願いと藤原さんの希望とが、実にうまく噛み合い、アリオンへの出演とオペラの賛助出演という交換条件が決まったのは、まさに天佑という他はなかった。ただし、このイベントを成功させるために問題が山積みであったことは言うまでもない。

 早速、経済面で途方に暮れる事態に至った。何はともあれ予算、立案の基本を何とかしなければならない。初めからわかっていたこととはいえ、無謀と言われても返す言葉もない状態であった。今更、手を退くわけにもゆかない。幹部・部員、力を一にして、と言いたいが、そうもいかなかった。部員の3分の1を占める朝鮮半島出身の学生諸君とは、同胞としての部活動を共にしていたのであるが、彼等の財的協力、ことにチケット販売は零に等しく、少数部員の中の更なる少数部員の努力は悲壮で、眠ることまで節約して頑張りぬいた。「よくもまあ、やりとげた」ものと、感嘆詞も出て来ようと言うもの。
 途中経過については省略するが、ともかく、実現、実行した感激、感動は筆舌に尽くしがたく、メチャメチャ歓喜した。自由学園創立者、羽仁もと子先生の言われる「力は出すもの、出せるもの」は我々のためにあるようなものであった。戦前、戦中、敗戦からさらに50余年を経過した今日でも、当時を想うと今なお、ぞーっとする。
 通常、音楽会と言えばステージの演奏者を撮影するのが常識であろうが、この時、我々は、聴衆の撮影を念入りに、と依頼した。写真屋さん、いささか驚いたようであったが、現在もその現物が残っている。当然、この写実は証拠物件として学校当局へ報告書に添えて提出し、溜飲を下げた次第である。もちろん、学校当局の驚嘆は、表現しがたいほどで、逆にアリオンへの絶大なる信望となって帰ってきたことは言うまでもない。
 その後、1941年(昭和16)に太平洋戦争に突入し、こうした文化活動は急速に消えていき、アリオンの歴史は戦後まで閉じられることになる。

                       (小島体景)

(1)藤原義江 1898年12月5日 下関~1976年3月22日 東京 テノーノレ歌手。 大正7年に戸山英次郎の名で浅草オペラにデビューし、美声をかわれ、大正9年イタリアに留学し、ガラッシ、ビネッティなどに師事、欧米各国で演奏活動を行ない、イタリア、フランス政府より受勲、昭和9年に藤原歌劇団を設立、以来オペラ運動に尽力、昭和27、28年に渡米公演を行なった。オペラ運動の先駆者、昭和23年芸術院賞受賞。
(2)関 種子 1907年9月18日 岡山-1990年6月6日 東京 ソプラノ歌手。
 昭和4年、東京音楽学校声楽科卒。ネトケ=レーヴュに師事、昭和4年、山田耕作のオペラ、(堕ちたる天使)の主役として出演。昭和9年以来、ローゼンシュトックに認められ、新交響楽団に出演する。昭和31年、佐藤美子、長門美保らと(コンセール・f)を結成、日本の歌曲の普及につとめた。昭和49年、紫綬褒章、昭和56年勲四等宝冠賞受賞。
(3)富田義助 バリトン、ヴォーカル・フォア部員、日大芸術科出身、日大芸術科助手。(昭和16年版 音楽年鑑)戦後、東邦音楽短大教授。
(4)ヴォーカル・フォア 1927年(昭和2)10月創立。主としてオペラの研究並びに紹介をなす。平井美奈子、佐藤美子、内田栄一、下川圭祐、城多文兵衛等の外合唱団貝多数を擁す。伊庭孝、近衛秀麿が顧問となっている(昭和8年版 音楽年鑑より)

p3603.gif

図2.jpg
1940年6月16日「独唱と合唱の会」(日比谷公会堂)
p3602.gif
1939年(昭和14)11月6日
「法政大学学友会音楽部」演奏会プログラム
日本青年館にて

p3403.jpgp3404.jpg