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アリオン100.jpg法政大学アリオンコール HISTORY

第三章 戦後の復興(1945~1950年)

〈新たな合唱団結成とオペラ合唱部としての活躍〉

 1945(昭和20)年8月15日、太平洋戦争は、日本の無条件降伏によって終わりをつげた。戦争によって大学はほとんど休学状態になっていたが、1945年9月からは学生が集まりだし在学中の予科の学生の卒業手続きなどが行われた。戦後最初の予科の入学試験が行われたのは1946(昭和21)年5月、授業開始が6月で、ここから戦後の法政大学が始まったと言ってよい。アリオンコール戦後復興の功労者の塚本吉成氏は、1945年4月に法政商業学校を卒業、同年4月法政大学専門部に入学し、そして1946年5月に法政大学予科に編入するが、この人なしに戦後のアリオンコールの歴史を語ることはできない。
 ここで、「予科」という55歳以下の人には聞き慣れない言葉が出てきたので、旧学制について簡単に説明しておきたい。
 現在の6・3・3・4の学制は、昭和22年の改革によって始まったものである。それまでは、義務教育の尋常小学校(昭和16年から21年までは国民学校となる)6年を卒業すると、高等小学校へ進むコースと中学校へ進むコースがあり、多くの人たちは高等小学校に進み2年間学んで社会に出た。この後、3年間の専門学校や師範学校にいく人もあったが、上の学校に進学する人はほとんど中学校に入学した(私立では、5年制の専門学校もあり、尋常小学校を卒業して入学することができた)。中学に進んだ人はそこで5年間学び、卒業すると高等学校へ進学するか高等専門学校(高等師範学校も含む)に入学するか、私立大学の予科、あるいは高等専門学校に相当する専門部に進むコースがあった。高等学校、高等専門学校、予科は原則として3年間で終了、その後進学する人は大学へ行って3年間学ぶのが通常のケースである。

それぞれの学校で飛び級があり、最短の人は小学校5年、中学校4年、高等学校2年で大学へ入学することも可能だった。通常23歳で大学を卒業するが、そういう人は20歳で大学を卒業できた。
 さて、話を戻すが、塚本氏は、1946年5月に大学予科に編入すると、それまで抑えられていた鬱憤をはらすように音楽活動に熱中する。まず、前川年弘氏や川村洋氏とともに仲間を集めて男声合唱団をつくり、翌22年から東京声専音楽学校(夜学)に入学し声楽を学び、YMCAのキリスト教研究会で指揮、和声学、コーラル、音楽史などを学ぶ。アリオンコールは、前OB会長の小島休景氏などが昭和17年3月に卒業すると、まったく活動が途絶え、アリオンコールの存在を戦後に伝える人がいなかった。そのため、23年まで塚本氏たちは、「コール・フロインデ」という名前で活動していた。また音楽団体は、他にタンゴバンド、ハワイアンバンド、オーケストラなどがあり、同じ部室に音楽部として同居していた。したがって、男声合唱団だけでなく、複数の団体を掛け持ちで活動する人たちも少なくなかった。
 当時、予科の校舎は川崎市の木月にあり(現在の法政二高がある場所)、旧制法政二中生だった田村有昭氏(昭和28年度卒)と塚本氏がピアノの奪い合いをしたことが、48頁の田村氏の思い出話に書かれている。「コール・フロインデ」の予科時代の主な活動としては、予科学園祭での「ホフマンの舟歌」などの演奏がある。その時の指揮者は、法政一高の先生をしていた武蔵野音楽大学専科の中尾和人氏であった。

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 塚本氏が学部に上がった頃には、新しい学生も入ってきて男声合唱団としての体制も確立し、予科と学部それぞれで練習し合同で演奏会を持つようになる。そんな折り、法政大学には、戦前から男声合唱があり、しっかりとした活動をしていたことを、戦前、一時アリオンコールに在籍していた松橋氏から聞き、1949(昭和24)年、「コール・フロインデ」をアリオン合唱団という旧名に変更する。
それ以後、1949年、1950年には関東合唱連盟主催のコンクールに出場、1949年は弘田滝太郎の指導を受け3位に入賞、1949年には本校の学生ホールで合唱とバイオリン独奏などによる戦後第1回の演奏会を行っている。
 そのほか、当時、中田英之助氏が幹事をしていた増田歌劇団(主宰増田晃久)合唱部と合流し、オペラの研究をする一方、1948年8月15日に日本ビクター主催による「春のコンサート」(毎日ホール)での「カバレリア・ルスチカーナ」や「アイーダ」、1949年7月18日の「ファウスト」(毎日ホール)、同年11月6日「カルメン」(読売ホール)、1950年1月24日の「椿姫」などに出演するという実績を重ねた。
 「カルメン」にいたっては公演回数8回にも及び、当時としては珍しい「プロ名鑑」に掲載されるという功績も見逃せない。

70周年祝典.jpg 学内の活動としては、1950年、法政大学創立70周年記念行事で校歌の演奏を行い、新しくつくられた勝承夫作詩、平井康三部作曲の学生歌「青春の煙火」「オレンジの園に」の発表にあたってアリオンが指導を行った。また、1950年には本校学生ホールで、増田歌劇団の演奏会形式による「リゴレット」を公演し、アリオンは、その合唱団員として出演している。その他の活動としては、1949年に、NHKの婦人の時間に出演、「御会式行進曲」を歌い、三越劇場の「ビルマの竪琴」ではイギリス兵の合唱部分を担当している。

 こうした塚本氏たちを中心とした活動によってアリオンの基盤が確立され、塚本氏の代が卒業した1951年10月の東京六大学男声合唱団の発足(第1回演奏会は翌1952年6月)、アリオンコールの他の音楽団体からの完全独立などの発展に繋がって行った。

                       (庄司光郎)

『オペラ=歌劇』

中田英之助(S25卒)

 夏の終わりの午後6時はまだ明るい。だが、朝からの雨で足元がぬかるみ、とても歩きにくい。秋の公演を間近に控えて、世田谷・三軒茶屋の練習場へ向かう途中である。終戦間もない昭和二十三年(1948)、このあたりの道はまだ舗装されておらず、水溜りが非常に多かった。
 公演の演目は、歌劇『カルメン』全四幕、キャストは次の通り。
ドン・ホセ (テノール)・増田晃久
カルメン(メゾ・ソ)・・・有岡有子/瀬谷道子/高橋越路
エスカミリオ(バリトン)・内田栄一/宮本良平/早川清一郎
ミカエラ(ソプラノ) ・松田トシ/三上孝子/河村順子
フラスキータ (ソプラノ)・桑原和子
メルセデス (メゾ・ソ)・・恩田一枝/井上俊子
スニガ大尉(バリトン)・・川守田佐一郎/中田英之助
ダンカイロ (テノール)・神野健太郎/塚本吉成
レメンダード(バリトン)・・・石田正之武
合 唱・・増田歌劇研究会合唱部・ヘリアンダーコール
演 出・・松山芳野里
振り付け・・竹部怜子舞踊団
美術・照明・土田銀松
舞台装置・・稗田 正
演 奏・・・東京都民交響楽団
指 揮・・・沖 不可止
 以上、総勢100名を越す出演であつた。公演会場は日比谷公会堂。主催は東京都小学校PTA協議会、後援は東京都教育委員会とサンケイ新聞社という、今見るとそうそうたるオーガニゼーションであつた。
 これが昭和二十三~四年ごろに起こした我々の行動である。練習場では既に、合唱団やプリンシパル達が集まって発声練習をしている。ピアノの鍵盤を叩いているのは、わが増田歌劇研究所の主宰者、増田晃久氏。増田氏はアメリカ生まれで東洋音楽学校出身の声楽家である。
 その昔(昭和十年代=1935~)、浅草のオペラ館で藤原義江・田谷力三・柴田睦陸・奥田良三・徳山環・永田弦次郎らと張り合っていた、テノール歌手である。
 増田氏は、『墨東奇談』で有名な作家永井荷風や、日本で最初のオペラ『葛飾情話』を作曲した菅原明朗氏。戸山英次郎の芸名で歌っていた藤原義江氏らとも親交が厚く、「日本語オペラ」 の基礎を築いた集団の一人であつた。

 話は少し遡って、筆者が増田氏と初めて知り合ったのは戦後の昭和二十一年(1946)の初夏。若林小学校の同窓会委員をやっていた関係上、いち早く仲間を集めて混声合唱団を編成し、小演奏会を前にしてピアノの伴奏者を捜していた。その時に知り合ったのが若林に住んでいた増田晃久氏である。増田氏はすでに[うらら混声合唱団]とを作っていて小規模ながら練習を重ねていた。筆者が組織する同窓会合唱団の小演奏会も無事に終わり、団員ら一同と打ち上げ会をやっていたその晩、「先生!お疲れのところすいませんが、一曲歌って頂けませんか」と頼んでみると、快く弾き語りで歌ってくれたのが、歌劇リゴレットの中のアリア「女心の唄」。
 曲は知っていても、目の前でオペラのアリアなど生で聞いたことがなかった筆者は、あまりの声の大きさと音程の高いのに度肝を抜かれ、暫くの間息をするのを忘れていた。気を取り直して、「すいませんが、もう一曲」と、再度要求すると、今度は歌劇椿姫の「乾杯の歌」更にもう一曲と、今度は歌劇マルタの中の「夢のように」を、たて続けに歌ってくれた。物凄く大きなハイ・テノールの声が天井を突きぬけ、窓ガラスを響かせてこつちの身
体にぶつかつてくる。これが人間の声かと思った。

 筆者はこの声の魔力に魅せられて、とたんにオペラの虜(とりこ)になつてしまった。早速その場で増田氏を中心に『歌劇研究会』を作ろうではないかと提案した。全員賛成で決まったのはいいが、言い出した手前責任者になつた筆者はそれからが大忙し。まず、オペラの合唱団員をどう充実させるかである。
 二十二年、取り敢えず法政大学アリオンコールに所属していたので、先ず男声は朋輩の塚本吉成氏(法大アリオン合唱団指揮者)に相談し、団員の中からパートを吟味して川守田佐一郎、川村洋、伊藤正雄の各氏と、地元世田谷の駒沢大学合唱部からも五~六人をピックアップしてもらい、それにうらら合唱団からの男声を加えてどうにか揃った。次は女声である。これもうらら合唱団の女声軍をベースにして団員達の推薦、それに雑誌広告やらチラシの配布などで掻き集め、合計五〇名程の人数が集まった。
した。

 さて最初の演目は、何にしようかですったもんだの挙句、日本人に馴染みの深い三大オペラ(椿姫・蝶々夫人・カルメン)の一つである『カルメン』をやることにした。
 第一幕第二場の『タバコ工場の場』に出てくる「子供の合唱」は、駒沢小学校の生徒さん達にお顔いすると快く引き受けてくれ、音楽の先生に楽譜を渡す。
 次は公演日時と会場の設定、そして主催を何処に依頼し後援をどこに頼もう、協賛は何処がいいだろうと苦慮し、更には出演者との交渉、スポンサー探しにと駆け回った。更にはパンフレットの校正・印刷とチケットの依頼先。はてはホリゾント・大道具・小道具、照明等は、演出家の松山芳野里氏を中心に打ち合わせ、それにプリンシ
パルの衣装はどうするなど、目まぐるしく行動しなければならない。
 勿論一人では出来ないから夫々責任者を決めて任す。それらはすべて無報酬で、しかも稽古をしながら全員が、手探りで担当していった。
 衣装のデザインも、増田の御大から要領を聞き出して資料を集め、めいめいの私服にリボンを縫いつけたり色テープを貼ったりモールもつけて、何とかそれらしく格好を整える。振付けはバレリーナの竹部怜子さん(竹都舞柄研究所)に依頼した。

 その後の演奏会には[読売ホール] で内田栄一、荒木宏明、松田トシ、栗本 正、栗本尊子、石井亀次郎というメンバーで歌劇「椿姫」を公演し、入場券(三百円)はプレイガイドで売り出された。こうして二回、三回、四回と公演が重なるうちに、総ての段取りを次第に呑み込んだ我々は、いつまでも研究会でもあるまいということになり、主宰者と相談して[増田晃久歌劇団]と改称し、世に打って出ることにした。
 当時、本格的なオペラが公演できるのは、芸大の [二期会]、[藤原義江歌劇団]、[長門美穂歌劇団]くらいなもので、その四番手に加わろうではないかと、鼻息は頗る荒かった。その間に、昭和女子大・共立女子大・東京女子大などから演奏依頼を請け、演目も次第に増えて行った。
 三年もすると、[増田歌劇団]の名が、日本タレント名鑑の団体の部に堂々と掲載されるようになり、我々は大いに気を良くしたものである。
 因みに公演した演目は、演技付きの本格舞台のオペラから、コンサートスタイルに至るまで、全曲演奏したのが、「カルメン」 「椿姫」 「リゴレット」「ファウスト」「カヴァレリア・ルスチカーナ」、それに 「バリアツチ」 である。
 中でも「カルメン」 は六回、椿姫も三回公演している。ほかにアリアと合唱部分だけの演奏は「ラ・ボニーム」 「アイーダ」 「タンホイザー」「トラヴアトーレ」 「蝶々夫人」 「フィガロの結婚」等々、数えてみると五年ほどの間に十数曲にも及んだ。公演会場は、日比谷公会堂・京橋公会堂・白木劇場・読売ホール・毎日ホールなどである。当時はこういう場所しかなく、国立劇場も新国立劇場も都立劇場もまだ存在していない。

 法政大学創立七十周年記念のアトラクションとして大学側から依頼され、学生ホールの舞台で歌劇『リゴレット』を全曲公演したが、このオペラは合唱が男性しか出演しない構成になつているので、アリオン合唱団に全面協力してもらい、大学行事には珍しい演題の一つとして、「記念行事史」の中の一貫を飾った事は特筆に価いするであろう。その後アリオン・コールの賛助出演によって、歌劇『カグアレリア・ルスチカーナ』もここで公演した。
 戦争によって全てが破壊され、日本の音楽芸術界も壊滅的な状態であつたが、我々のオペラに対する意欲と情熱だけは、燃えるように熱かつた。

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アリオンコールの第1回発表会

川守田 佐一郎(S25卒)

 ”今思っていることと思い出すこと”ハモることに楽しさと喜びを求め,そして人間的肌のふれ合いに憩いを感じ,お互い年令の垣根を超え,むしろ回春の味わいとして月2回の練習を続けている貴重なメンバー‥・・‥これがコールアリオンの火を消さすに頑張っている姿と思って戴ければ感激てす。
 思い出話はつきない程あり,その一つを紹介しよう。
 昭和24年の秋アリオンコールの第1回発表会を新築落成の学生ホールで催した。

部費の財政状況からみて節約路線止むなしと楽譜,入場券,プログラムはすへてガリ版ズリしか方法はない。やるからには収入が必要だ。入場券を1枚50円で団員手分けして売りまわる。プログラムの内容に色をつける意味てバイオリンソロを2曲組み込んで入場者のサービスを図る。曲目は「三匹の蜂」「御会式行進曲」「婆やのお家」「権兵衛が種まく」他数曲だった。こと発表会の結果がNHKの仕事につながったのも緑と云うものだ。第一放送「婦人の時間」にドラマの1コマとして出演した。成績はまあまあて出演料は確か1人120円と思う。収入額はすへて部費とした。参考に当時の学生アルバイトは1日当リ100円が相場だったことから喜びも当時としては大きかったわけだ。……ああなつかしい!

挫折した陰謀-知られざる法大音楽史のひとコマ-

良市正士(S25卒)

 昭和24~25年といえは,戦争の傷跡がまだ生々しく,東京の町は,いたるところ瓦礫の山。その中にぱつ,ぱつと焼けビルが残り,まだ,焼けトタンで作った掘っ立て小屋や,防空ごうに住んでいる人も多かった。
 大学も例外ではない。とくに被害の大きかった法政はみじめなもので,どうにか焼け残ったコンクリート造りの建物-通称「八角校舎」-六角だったかな?……のはかは,バラックみたいなのが何棟かあるだけで,近隣の他校に間借りしたり,という有様だった。
 そのナントカ校舎も,たまたまコンクリート造りだから残っただけのことで,壁は落ち,ガラスは破れ,冬になると,やけに厚いコンクリートがたっぷりと冷気をためこんでいて,もちろん暖房なんてないし,教授も学生も,教室の中で外とうを着たまま,ふるえていたのだ。しかし,あの,くらーい戦争が終って,はじめて自由に学問ができる時がきたというので,若者たちの,心は燃えさかっていた。
 わがアリオンの部室は,そのナントカ校舎の地下にあった。部室といっても,タンゴ・ハワイアンの両バンドと同居だし,窓ひとつない,陰気でせまいへやだし,大世帯のわが方は,ほとんどそこを使わなかった。たまに気が向いたときに,雑居べやのワイザツな空気を吸いに行くだけだ。
 その日も,濁った空気が恋しくなって,階段をおりてゆくと,下から,何とか壮厳な音楽が響いてくる。一誰かヴァイオリンを弾いている。-バッハの無伴奏パルティータだ。扉をあけると,地下牢のような部屋から,神々しいまでのしらべが溢れ出して来た。弾いているのは哲学科の学生で,時々,タンゴバンドに加わっている人だった。
 今でこそ,アマチュアでこういう曲を弾ける人も珍しくないが,そのころはプロだってなかなか弾けなかったものだ。一そうか,こういう人もいるんだ。どうしてもオーケストラを作らなくては…‥・。改めてそう思った。
 戦前の法政には,立派なオケがあったそうだが,もちろん戦災で消滅し,当時,器楽のサークルは,前述の両バンドだけだった。-余談だが,この両バンドは,当時全盛だった米軍キャンプ廻りで,華やかな活動をしていた。-なんとかしてオケを復活させたいものだ……。タンゴバンドの花形で,アリオンの有力メンバーでもあった川守田氏たちと,よく話しあっていた。
 まず楽器が必要だが,とくに管や打楽器を個人で持っている人はすくない。当時,プロのオケでも楽器が足りなくて,戦災をまぬがれた東大の音楽部などへ借りに行くという話だった。-東大の部室へ行ってみろ,コンパスのケースがずらーつと並んでるぞ・…‥。ある仲間が,ため息まじりに言ったものだ。資金援助を,学校側に申し入れてみたが,大学の財政も火の車,おまけに運動部最優先の大方針のもとで,大金を食う「軟弱」なオーケストラどときに,ビター文出るはずもない。
 そんな中へ,とつぜん「いい話」が転がりこんできた。-プラスバンドを作れ……という学校側の命令だ。六大学の名門校が,プラバンもなくては士気にかかわる。早急にやれ,というわけだ。所属は応援団だ。学内唯一のクラシック系サークルであるアリオンに打診があり,フルートを少しばかりかじっていた私が,編成の任にあたることになった。

 好機到来とばかり,すぐに,塚本氏,中村氏とつれ立って,当時親睦の日本楽器K.K.一通称「日管」へ乗り込んだ。そして購入楽器のリストを作ったが,これが大変なしろものだった。応援用バンドなら,必要最小限度として,トランぺット,大バス小バスに,大太鼓小太鼓などの7~8人編成で足りるが,私たちのリストには,フルート,クラリネットほもとより,オーボエ,ファゴット,フレンチホーン各2本に,2本のトランペット,3本のトロンポーン,打楽器群にはティソパニまで揃っている。-シンフォニックバンド,というより,2管編成オケの管・打楽器セクションそのものだ。敵は本能寺にありで,これに自前の弦楽器を持ち寄ってもらえは,オーケストラー丁あがり!という構想だ。
 高価な楽器も多いので,グレードは最低におさえたが,それでもトータルはばく大な金額になった。おそるおそる学校側へ棲出したら,なんと全額承認されてしまったのだ。一夢にみたオーケストラが,もう手のとどく所にきた…ぼくらは完全に舞い上がっていた。
 ところが,好事魔多しで,その直後,私が病気で倒れてしまい,パンド作りの作業ほ応援団に返された。でも,お膳立てはすべて整っているから,と吉報を待っていた病床に「日管」の社員が訪れて来た。うかぬ顔だ。きけば,なんと応援団の担当者が「日管」とまちがえて隣の「日楽」へ行ってしまった。そこで改めて注文したので,事情を知らぬ日楽さんは,正真正銘応援用のバンドを編成してくれたのだということだ。
 値段は,はじめの予算の半分以下とか。あったりまえでしょ,ラッパと太鼓だけだもの。でも応援団じゃあ,あのぺテン師め,とぼくらのことをニガニガしく思ったにちがいない。
 こうして,応援団に便乗してのオケ作り作戦は夢と消えたが,すぐに,川守田氏,川村氏たちの努力で室内アンサンプルができ,その後,地道な発展をつづけて,今は立派なオーケストラに成長してぃるときく。
 それにつけても,人間を,国土を,文化を,何もかも焼きつくしてしまう戦争が,地上から消えて,この平和が,いつまでも続いてほしいと思う。

注) 日本管楽器K.K.は戦前からの,管楽器専門メーカーの最大手,というより,国内唯一の本格メーカーでした。その後日本楽器(ヤマハ)に吸収合併されて,ヤマノ、の管楽器部門に移行したもようです。
 本社ビルが隣なりあっていたことから考えても,もともと緊密な資本系列関係にあったのではないかと思われます。 
 このときの,応援団が注文したプラバンー式も,結局,そっくり「日管」が「日楽」に納入して,法政に渡されたとのことです。  
 川村氏らの室内アンサンプルが,そのまま,オケにつながったかどうかは知りませんが,すくなくとも源流を形成したと考えていいと思います。

(1987年第3号OB会報より)

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 戦前の法政大学を代表する校舎は、1921(大正10)年に建設された木造三階建ての第一校舎でした。
 この校舎は1923(大正12)年の関東大震災でもほとんど無傷でしたが、1945(昭和20)年5月25日から26日にかけての焼夷弾攻撃を受けて第二校舎とともに焼失しました。
 幸いなことに、六角校舎、新館(校友会館)、第三校舎(図書館)が残っていたので、他大学と比較すると被害は少ないほうでした。戦災による法政大学の被害度は55パーセントと測定されています。
 なお、大学では教員と学生の強い要望に応えるため、終戦から3カ月目には、焼失を免れた第三校舎(図書館)で昼夜の閲覧サービスを開始しました。

kosha.jpg焼け跡に戻ってきた学生たち

アリオンコールの思い出

伊藤正雄(S25卒)

 「アリオンコールの思い出」とのこと,卒業(昭和26年3月)以来35年も経っているので困惑したが,過日母校(現法政大学第一中学校,第一高等学校)の創立50周年記念行事に出席した際,中尾和人先生(音楽担当)にお会いし,お話しするうちに,徐々に懐かしい思い出が建って来たので,思いつくままに当時のことを記してみます。
 「終戦後の市ヶ谷校舎には,練習場所もピアノもなかったので,アリオンコールは,僕の家(世田ケ谷区奥沢)で練習していたんだよ,塚本君達がよく来たよ。練習後にお茶でもと思ったが,燃料も不自由だし勿論茶などないから有り合せの茶碗に白湯を注いで飲んで貰った。当時の茶碗が,未だ残っているよ。」と先生は,壊しそうに語られた。
 当時,小生は入部してないので判りませんが,人数も10名位,時期は昭和21~22年頃かと思います。
 終戦後暫くの間の法政大学は,市ヶ谷豪上の焼跡に,半焼した六角校舎と,講堂のある鉄筋の校舎があっただけ。当時の小生は,学費と食糧確保の必要から,アルバイトの連続で,殆んど学校には行かれない状態で,思い出した様に学校に行っても,掲示板には「休講」の貼り紙が,ヒラヒラと舞っている状態で,学科に関係なく,講義の行なわれている教室を捜し廻り,入り込んで聴講したが,そこは毎時も満員の盛況だったと記憶している。
 従って専門部(法律学科)の3年間は,満足に受講したことはないことになり,昭和23年再度法学部に入り直したが,法改正の時期と重なったこともあり,六法全書は勿論,教科書すら手に入らず,教授の推せんされる本は,殆んど入手不能,巳むを得ず順待ちで,図書館から借り出し,要旨を書き写すのが精一杯の状態だった。
 読みたくても本は満足に買えず,読むことの出来ない学生生活,最近の人には想像も出来ないことですが,二度とあのような時代の来ないことを願うのみです。
 ここで,小生とアリオンコールの出会いについて触れてみたいと思います。
 相変らず窮迫していたとは云え,戦後も4年経ちますと,社会も若干落着いて,復興の気配も見えはじめ,学生生活を“Enjoy”したいと云う余裕が出て来た頃「合唱部員」募集の貼り紙が目に入りました。
 「山岳部」の貼り祇もあったのですが,どうも腹の空くのは,と言うことで取り止め,腹は空かないだろうと思って合唱を撰んだ次第で,入部後の練習で合唱がこんなに腹の空くものかと気付いたが後の祭りでした。
 当時練習は,逓信病院寄りにホールが新設され,ピアノもあり,部員は20~30名程度だったと記憶してます。
 それこそオズオズと,「合唱はやったこともないし,楽譜も全く読めないが,仲間に入れて貰えまいか」と,申出たところ,今にして思えば塚本・中村の両君(後で両君共中学の後輩と判明した)に,ピアノの前で発声練習の真似ごとをやらされ,“声は大きいし,音域は広いようだから,取り敢えずは人数不足気味のバリトンと云うことにしよう”と,なにがなんだか判らない理由で,入部が認められた次第です。

 当時の主力メンバーを列挙すると,指揮塚本吉成,T1中田英ノ助,足立,河野,T2 中村靖彦,B1河村 洋,B2 小島体景先輩,川守田佐一郎,前川善弘の諸君であった。
 選曲も,上記諸君の合議で決定していたようで,ドイツ,スコットランド,ロシア等の民謡が主で,日本のものでは「婆やのお家」が,優しく思い出される。
 現在と異なり,楽譜も簡単には手に入らない時代だったが,河村君がそれこそ芸術的と思われる程丁寧にガリ版を切り,自分で刷り出したものを練習の都度渡して呉れた。
 勿論,紙も貴重品だったので,楽譜は河村君が自分で管理していたこともあり,汚したり,紛失したりすると物凄い勢いで,叱られた。
 河村君にほ,練習の都度「マアちゃん(小生)音が,狂ってるよ,リズムを勝手に作っては駄目」と注意され,変なのが入ったためバリトンのパートリーダーとして大変ご苦労されたようです。
 演奏に関る思い出としては,駿河台の中大講堂で行なわれたコンクール(現在の全日本合唱コンクールの前身か?)に参加したが,東大・早大・慶大が夫々100名以上の部員を擁し,レベルの高い演奏をし? アリオンコールは30名位の出演で,見映も悪いせいか入賞すら出来ず口惜しかったこと,新設された当時小生は(法政には女子校はないと思っていた)法政女子高に出向演奏し,訳もなく嬉しかったこと。
 ピール飲み放題の約束で,某ピール工場に慰問演奏に出向いたところ,演奏後「先ずは工場見学を」と案内され,一巡後「さあ,存分に召し上れ」と云われたが,工場内の臭気が鼻について,全く飲めなかったことなどが印象として残っている。
 卒業間近の夏(昭25年?)塚本・中村・中田の三君と,2~3日の予定で,テント持参で山中湖に出掛けたが,到着の夜豪雨に会い,持物全部が水浸し,幸い翌日は晴天に恵まれ,全員で洗濯と干し物に終始した。
 その夜四部合唱を,夜半まで練習して寝たが,翌朝我々のテントに数人の訪問者があり,「昨晩は,愉しい音楽をどうも有難う,私達は帰りますから,よろしかったらどうぞ」と,米・味噌,野菜,薪等の差入れがあり,結局1週間程滞在することが出来たが,費用は交通費を含めて1人当り1,000円位だったと記憶している。
 ポータブルラジオもテレビも無い時代,湖畔での我々の合唱は,さぞや妙なるものと響いたことでしょうし,最近の行楽地での喧噪をみるにつけ,そしてテント設営から,炊飯一切を小生一人で(誰も出来ないし,やろうともしなかった)やったことも,併せて懐かしく思い出されます。又,当時松田晃久先生(オぺラのテノール歌手)の主催されていたオぺラ歌劇団にコーラスボーイに狩り出され,読売ホール等で,ピアノ伴奏ながら,オぺラ(確かヴェルディの50年記念とか?)公演会にも出演することが出来,確か法政の文化祭に際し,前述したホールで「カグァレリア・ルスチカーナ」を公演したこともある。
 又,「ビルマの竪琴」の案内を見る度に思い出すのが,合唱団として出演依頼を受けたが,暗闇の舞台裏で,指示も明確でないまま,日本語と英語で歌い分けろと云われ,オタオタし,翌日は来なくても良いと言われた苦い経験である。

(1987年第3号OB会報より)

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アリオンコール合唱団