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アリオン100.jpg法政大学アリオンコール HISTORY

第四章 アリオンの飛躍(1951~1959年)

〈東京六大学合唱連盟の結成〉

 1950年の1年生の入部者は田村有昭氏など3名ほどだったが、翌1951年には2年生8名、1年生8名が入部し、教養部(1949年から新しい大学制度となり、教養部2年、学部2年となっていた)の部員だけでも20名前後になっていた。教養部の練習は、川崎市木月の大講堂で、同年5月1日から月・火・土の週3回行われた。指導者は田村有昭氏。曲目は「眠りの精」「菩提樹」「野ばら」等で、5月26日の文化連盟主催の学内催しで演奏発表する。つづいて6月19日学内平和祭に出演、西山秀夫氏、田村有昭氏の指揮、森倫一氏のピアノ伴奏で「狩人の合唱」「流浪の民」などをうたう。
 この後、11月3日の全日本合唱連盟主催のコンクール出場を決め、7月の夏季休暇にも練習し9月からは、この春に卒業したOBの塚本吉成氏を指揮者に招き、学部との合同練習を行なった。その間、増田晃久氏(増田歌劇団)に指導を受け、11月3日の合唱コンクール関東予選に出場するも、残念ながら入賞はできなかった。

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第1回東京六大学合唱連盟合同演奏会

 1951年11月12日。かねてより準備が進められた東京六大学合唱連盟(六連)が結成され、その結成式が明治大学講堂で午後3時から開催された。各校のエールの交換があり、校歌とレパートリーのなかから1曲(アリオンは「羊飼いの日曜日」)うたった。校歌の合唱用譜面がなくユニゾンでうたったことは残念であったが、他校の合唱レベルの高さに驚かされた。
 これをきっかけに11月17日、教養部アリオン合唱団の総会を開き、年度の反省と次年度に向けての要望等を検討する。席上、とくに必要性が叫ばれたのは、『良き指導者の招聘』であった。
そこで当時アリオンの部長教授だった松波港三郎先生にお願いし、後日、同教授の実弟である松波碇四郎氏を紹介していただき、1952年4月より指揮者として就任していただくこととなった。なお、1952年度学部総責任者として森次男、マネージャー村山叡、指導責任者西山秀夫、田村有昭、会計宮崎広公の各氏、教養部責任者として佐藤良一、支配人村尾勇之、指導責任者赤川軍一、他を選出した。
 年が新たになり、1952年2月、コロンビアレコードで、校歌、学生歌、応援歌をレコード録音吹込みをするが詳細は別記する。1952年4月24日、第1回総会が、松波港三郎教授と部員37名(4年4名、3年8名、2年10名、1年15名)の出席によって開かれた。ここで常任指揮者として松波碇四郎氏の招聘を正式に決定。学部・教養部合同練習を週1回、曲目は新指揮者の意向でロシア民謡を中心とすることとした。
 新しい体制になって、早速5月には、NHKと日本文化放送の放送番組に出演。校歌、応援歌を演奏。六連第1回合同演奏会に臨んだ。
 演奏会は6月9日、日比谷公会堂で行われ、アリオンは、松波碇四郎氏の指揮で「野ばら」「せわしき流れの河」「おうちの前に」「夕焼け」他3曲で、初めての本格的なステージをこなした。なお合同演奏は、秋山日出夫氏の指揮で、「歌え若人」「今様」を演奏。引きつづき6月20日に、関東・合唱連盟主催の合唱祭に参加している。

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〈初めての合宿〉

 この年の活動で特筆すべきことは、先の第1回六連合唱演奏会ともう一つ、初めての合宿を行ったことである。7月7日から7月14日までの1週間、アリオン部員・森倫一の箱根仙石原にある別荘に部員18名が参加。部員の他に常任指揮者の松波碇四郎氏と部長教授の松波港三郎夫妻が来所されている。初めての合宿ということもあり、練習よりも親睦が優先された。金時山に登って金時娘と仲良くなったり、芦の湖にハイキングするなど、楽しく過ごし、有意義なひとときであった。
 秋になると、11月に教養部木月祭、学部大学祭、潤光高校(現・法政女子高)文化祭などに出演。また第7回全日本合唱コンクールに参加するなど多忙をきわめた。
 当時、本学にはアリオンの他に交響楽団、軽音楽4団体の計6団体があった。この6音楽団体の総責任者の高橋正臣民の発案で、6団体が一同に会して音楽会を開催することとなり、12月8日、第一生命ホールにおいて、第1回オール法政グランドコンサートを行った。演奏内容はともかく、法政大学音楽部としては初の試みであり、高く評価された。アリオン合唱団は、松波碇四郎氏の指揮で、「野ばら」「母なるヴオルガ」「オレーグ公」他数曲を演奏した。
 1953年に入ると、本学音楽部総責任者に渡辺孝雄氏(アリオン在団)、タンゴバンド責任者に田村有昭氏(アリオン在団)、アリオン責任者(兼練習責任者)に西山秀夫氏が就任、アリオンはマネージャーに村山叡氏、会計に田中謙治氏を配して、この年、本学音楽団体のリーダー的役割を果たすまでに発展する。
 1953年の新入団員も20名ほどあり、50人近い団員数となった。また、4月22日、教養部講堂において1953年度第1回総会を開き、学部、教養部が合同で練習することとし、練習場として渋谷の国際音楽学校を確保。24日より週1回の練習に入った。
 4月21日、日比谷公会堂で行われた民間放送祭に六連選抜軍として出演、4月30日には経済学部新入生歓迎会に出演している。六連第2回合同演奏会は、6月7日に日比谷公会堂で開催され、ロシア民謡を中心に演奏する。中でも、最後にうたった「威風堂々」は合唱としては初演ながら好評を博した。合同演奏は、石丸寛氏の指揮による「Ständchen」「大地の歌」。
 第2回合宿は7月11日から7月22日まで、箱根仙石原において行われた。この年は、参加者が増えたこともあり、森部員の別荘では収容しきれず、近所の酒屋の二階を借りて行われた。

 秋の活動としては、11月に全日本合唱連盟主催合唱コンクール予選に参加(課題曲、清水脩作曲「海」)、11月29日には、第2回オール法政グランドコンサート出演(日本青年館ホール)。1954年1月、総会が行われ、次年度幹事役員として、責任者・米倉實、学生指揮者・赤川軍一、マネージャー・佐藤良一、他を選出。その後、神楽坂の「二葉」において、送別会を行った。
 1954年4月の幹事交代の総会においては、それまで常任指揮者であった。松波碇四郎氏が、ご都合により退任することとなり、代わってアリオンOBの塚本吉成氏(1950年度卒)が推薦され常任指揮者として就任した。新入部員も15名を超え、現部員35名と合わせて、計約50名で、国際音楽学校の教室を練習場として六連に向けて新年度の活動を開始した。
 第3回となったこの年の六連では、特筆すべきことが2つある。
1つは、それまで1日の演奏会を2日間の公演としたことである。第1日目を6月7日・日比谷公会堂で、第2日目を6月8日・神田共立講堂で公演。当時は東京六大学ばやりで、スポーツはもとより、音楽分野でもジャズ、ハワイアン、オーケストラ等の六大学合同演奏会が開かれ、われわれの合唱公演も2日間のチケットを完売し、当時の最大規模の両演奏会場を満席にした。
 2つ目は、合同演奏者の指揮者として磯部俶氏に要請したが、氏より六連に対し、合唱曲「若人の歌」(作詞・西条八十、作曲・磯部俶)が贈呈され、氏自身の指揮で初演されたことである。東京六大学合唱連盟が合唱音楽会をリードする立場に立ったことを示すものであった。
 六連以後の活動としては、6月20日、関東合唱連盟主催第9回合唱祭にコール・アリオン(OBとの合同)で参加。7月3日から箱根仙石原において第3回目の合宿を行い。10月30日、関東合唱連盟主催コンクール、大学男声の部に出演している。
 それまで何とか単独の定期演奏会を持ちたいと計画を練っていたが、たまたま秋の学園祭で管弦楽団との合同ステージを持った際、双方から合同で演奏会を行いたいとの意志が示され、12月に開催されることに決定し、12月8日、第一生命ホールで公演された。前年までは、音楽部主催の『オール法政音楽会』の名義による軽音楽団体と一緒のステージであったが、これにより、戦後初めてのクラシック部門のみの演奏会を開催、管弦楽団との合同とはいえ、世間にアリオンの名を知らしめた。
 また、この年、11月に、オペラ・バレエ研究会の要請で文部省芸術祭参加作品、ムソログスキー作曲「ボリスゴドノフ」の本邦初演にエキストラとして出演したが、うたう場面はなかった。
 1955年1月の総会で、次年度責任者兼技術者任者として竹内康介氏を選出し、前年同様、神楽坂「二葉」で送別会を行い、1954年度の活動を終えた。           

(佐藤良-)

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その頃のこと~アリオンコールと私

松波碇四郎(元顧問)

 たしか昭和六~七年頃と思うので,すでに30年近くたつわけで三昔位になるでしょうか。私の立教グリークラブの現役時代,立大教授で音楽評論家の辻荘一先生が正指揮者をしておられ、私はキャプテン兼副指揮者をしていた頃の事でした。その頃六大学合唱連盟はありませんでしたが、それとなく六大学の男声合唱団の幹部の間に横の連絡があり,私達は特にアリオンの方々と仲良くしておりました。合唱コンクールがほじまったのが昭和三年で,その頃の合唱界ほそれはささやかなもので各大学とも、メンバーに不足していたので、演奏会の時はお互に融通しあってた様に思います。そして幹部級の一応楽譜の初見のきく人が『おてつだい』に行ったものです。
 私のはっきり覚えているのは、アリオンの演奏会を大学の講堂でやった時、私以下数名がおてつだいに行き、十数曲を歌いました。何を歌ったか覚えておりませんが、その時の責任者兼指揮者の方が盛田実という人で、その人の作曲の歌もー曲あった事だけほっきりと覚えております。(中略)
 アリオンの諸兄にまみえたのは昭和25年の頃だったと思います。私の兄が法政の音楽部長をやっており、指揮者をさがしてるからお前やってくれないかと言われ、それでは、とに角幹部諸兄に会ってみようという事で家に来てもらい、就任する事になりました。
 私は昔からロシア民謡がすきだったので、「みなの賛成があればこれを主としてやりたい、しかしこれをもっぱらやると、心なき人にアリオンは赤い、などと言われてはこまるが」と言いましたが、みなが賛成したので「アリオンほロシア民謡が得意」という伝統を作る事に努力しました。

 六連が結成されたのは私の就任直後でした。発会式は明大の講堂で行なわれました。その頃のアリオンは実力もとぼしく,各校の校歌をはじめにやったのですが編曲練習が間に合わず校歌ほ斉唱無伴奏でやったのですが、他がみな合唱でやったので肩身のせまい思いをしました。
 さて本式に仕事にかかったわけですが、ロシア民謡の男声合唱用楽譜はきわめてとぼしく、また市販のものでは満足出来ないのが多いので、私が編曲してから補足しました。六大学の大部分は夏季合宿をやっているけど、アリオンはまだやっていないとの事に、私がすすめてその年から合宿をする事にし、第一回を箱根でやり、私の在任中ほずっと箱根の仙石原でやりました。全員をつれて金時山に登り頂上附近の岩頭に並んで歌った事など楽しく回想される一頁です。
 六連は毎年一度、日比谷公会堂で満堂の聴衆を集めて行ない、年と共に充実して釆ました。私共ほロシア民謡に主体をおき、日本にない楽譜をアメリカから取寄せてやりました。ドボルジャックのオリジナルのピアノ連弾と男声合唱のための曲は六連で発表しましたが、これは本邦初演で、いまだに日本では誰もやっていない様です。その他の仕事としては、二、三の楽器を伴奏につけタンゴなどを男声合唱にアレンジしてやったりしました。
 私ほ三年間一生懸命仕事をし、メンバーも40~50名になった頃、商用でアメリカに行く事になったのをしおに退任しました。その頃にはメンバー諸君も大分ロシア民謡になれて釆た様でした。(後略)

        (昭和34年部報より転載)

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私のアリオン。青春時代に感じたこと
(昭和30年前後)             

白鳥登志雄(昭和33年度卒)

 田中先生は昭和32年より、我々アリオンの指揮者として迎えられた。
 まず先生がやさしく編曲されたロシア民謡で、美しい「音」を求める基礎練習を始めら、と同時に「音楽」もご指導なされた。こうして、アリオンの力も確実に伸び、第6回六連演奏会は田中先生の指揮で演奏され、他大学グリーもアリオンに注目した。

【六連で初めて学生が指揮したこと】
 昭和33年4月「第1回ヨーロッパ音楽祭」の為、田中先生突然渡欧。田中先生と幹事会は“六連は白鳥の指揮で「日本の笛」を”と決定し、私の指揮で猛練習にはいるが、未熟な学生指揮、もう一つ「音楽」にならず、急遽、作曲者の平井康三部氏に教えを乞うことになった。民謡のフシ廻し、「親船小船」のクレッシュンドのしかた、等の音楽の築きかたの指導を受け、私と団員にうたう心が理解でき、表現力が廻る。
 六連当日、「親船小船」では、全員の合唱と宮原寛之のソロの迫力に、自然発生的に会場から柏手が沸き上がった。
小島休景先輩と小島静子先生より「聴衆に訴えた音楽に涙が出た」と感激された。勿論、技術も向上したが、それを上回る団員の歌おうとする心が、聴衆に訴え、拍手が沸き起こったものだと信じています。

その夜、先輩達に新宿の“風月堂”近くのビアガーデンで、慰労していただいた。 小島先輩と静子先生、塚本先輩をはじめ、皆さんから賛辞を戴き、OBと現役が一緒に「野ばら」「月光とピエロ」等を合唱した。OBと現役の一体感を感じて味わう。見上げた夜空の星が非常に美しかった。

【「合唱音楽」のあれこれ】
 昭30年頃の男声合唱曲といえば、黒人霊歌かロシア民謡が愛唱されたが、今では古典の感じのする「月光とピエロ」は、昭20年代後半に作曲され、非常に新鮮な曲として各グリーで歓迎され、好んで演奏された。と同時に合唱団の教科書的な存在にもなった。
 W大学のグリークラブがこの曲を歌うときは、ステージいっぱいの人数で、その声量は他の大学グリークラブを圧倒していた。「月光とピエロ」ばかりでなく、黒人霊歌でも同様であった。しかし、その歌い方については、音楽雑誌“合唱界”(全音楽譜出版)に「無国籍グリー調の演奏」と、かなりきびしい批評が載っていたのが妙に想いだされる。
 しかし、昭和33年、慶応義塾のワグネルソサイエテーの定期演奏会は、男声合唱の頂点の演奏と言ってもよい素晴らしい出来ばえであった。
 曲は組曲「蛙の歌」(草野心平詩、南弘明曲)で、曲の素晴らしさと、指揮者(木下保)が詩と曲を見事にうたいあげ、特に最後の「秋の夜の会話」の演奏は、聴衆に緊張感と感動の静けさを与えて拍手も忘れさせる程であった。作曲者の南弘明氏は、芸大の学生であった。

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校歌・学生歌・応援歌
レコード吹込雑記

佐藤良一(昭和29年度卒)

 昭和27年初頭学校当局から校友会の後援で校歌学生歌応援歌のレコードをコロンビアレコードで作成することになり、その合唱にアリオン合唱団を中心にして吹込をすることで話があった。吹込の期日は2月校歌は作曲者近衛秀麿先生自身の編曲で某日当時赤坂にあった近衛管弦楽団の練習場にて近衛先生の指導を受けた。練習を前にして先生より三つの話があった。
 その1 最近神宮の森から聞こえてくる法政の校歌はちょっと違って聞こえるまず正しく歌うこと 
 その2 この曲の性質上男声合唱で4部で歌うことは無理があり今回は2部合唱で編曲してある 
 その3 この校歌はゲルマン民族が堂どうと行進するイメージで歌うこと等であった 

 吹込みは新橋にあったコロンビアレコードのスタジオで近衛先生の指揮伴奏はレコードのレベルは大学音楽部となっているが実際は当時の近衛管弦楽団で録音されたものでアリオン合唱団とエキストラを入れて三四十名であった。
 学生歌青春の燦火 オレンジの園は共に平井康三郎先生の作曲者自身の編曲で合唱は法政の女子高で潤光高校音楽部と合同で混成4都合唱 平井先生指揮伴奏コロンビアオーケストラで同じくコロンビアスタジオで録音応援歌若き日の誇りは岡本雅雄先生の作曲編曲で岡本先生の指揮伴奏でコロンビアオーケストラで録音。当時岡本先生はNHK東京放送管弦楽団の指揮者できびきびとした演奏であった 以上4曲SP盤2枚組で昭和27年4月にコロンビアより発売された。
唯各作曲者が編曲されたオーケストラ用の総譜が学校に寄贈されたが現在残っていない特に校歌は近衛秀麿先生の直筆であった。

〈昭和30年前後の合唱界〉

 ここで昭和30年前後の合唱界について述べておこう。この頃、社会では“太陽族”ブームが生れたが、反面、数年前からの“うたごえ運動’’は衰えず、喫茶店“灯”(新宿)はロシア民謡をうたう若者たちで連日満員であった。うたごえ運動を否定するわけではないが、うたうことより、お互いの仲間意識や連帯感を求めるもので、所詮、本物の音楽とは言えず、合唱団に「音楽」を求める人もたくさんいた。

アマチュア合唱団があちこちで設立され、一つの合唱ブームとなった。合唱だけの音楽雑誌「合唱界」(全音楽譜出版社)が発刊され、1956年にはプロ合唱団「東京混声合唱団」(東混)も設立された。
 国民性なのか、日本ではロシア民謡を好みうたう合唱団が実に多く、当時、アリオンもロシア民謡を得意としていた。また、ドン・コサック合唱団が来日して興行的に成功したり、ダークダックスが誕生して人気を博したのも、ロシア民謡が関係していたのかもしれない。

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〈飛躍的成長〉

 1955年、「もはや戦後ではない」と言われはじめ、アリオンにも高校時代に合唱を経験した堪能な学生がチラホラ入ってきた。
 アリオンの練習は当時、徳川講堂(目白)で行われ、時間の大半は発声練習に費やされた。この年から小島静子氏をヴォイス・トレーナーとして迎えたが、先生は一日も欠かさず練習に来て下さり、悪声のアリオン団員を、トレーニングされた。とくに1年生は30分早出の練習があった。その勢いで第4回六連合同演奏会に臨んだが、確実に飛躍の兆しが見えた演奏だった。
 この年、幹事会の任期の改正が行われている。4年生が就職活動のためアリオンの活動に全力を尽くすことができないとのことで、六連終了後退任し、3年生が幹事となった。責任者に小林義明氏、技術者任者に永井宏男氏を選出し、新たな飛躍をめぎした。
 小林・永井氏の3年生による幹事体制になって初めて取り組んだのは地方演奏旅行だった。その苦労話については、別に詳しく述べられているが、静岡での合宿・演奏旅行である。合宿と演奏旅行が引き続いて行われたために合宿への参加者が減り、部員減少の一つの原因ともなったが、当時の学生の生活事情を考えれば、発展の過程で通らなければならない一つの問題点と言ってよかった。
 それまで、六連各校対抗の野球大会、ソフトボール大会が行われ、アリオンはいずれも優勝しているが、この年10月、アリオンの野球大会も行われる。この野球大会は部員の親睦を高める行事として、以後現在まで続いている。
 管弦楽団との合同による第16回定期演奏会が12月3日、第一生命ホールで開催され、1956年1月28日、「レストラン・グリーン」で4年生の送別会を行って1955年度の活動を終えた。

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第16回定期演奏会(第5回定期演奏会)

 1956年4月、また新しい部員が入ってきた。六連合同演奏を前にして、5月13日、新入生歓迎西武園・ユネスコ村ハイキングを行った。第5回六連合同演奏会は、6月23日、24日、日本青年館で行われた。合同合唱は、指揮者に前田幸市郎氏を迎え、ベートーベンの「Die Ehre Gottes aus der Natur」「Opfer lied」を演奏している。
 六連のあと、責任者・海上昭三氏、学生指揮者・佐藤房雄氏の新しい幹事体制が発足し、新体制での夏合宿は、福島県猪苗代湖畔の天鏡閣で行われた。
 この年、さらなる発展を求めて、プロの常任指揮者の招碍の機運が高まった。そこで、幹事会は、まずOB会長(当時)の小島休景氏に相談したところ、助川敏弥氏に助言を求めるよう紹介される。そこで、学生指揮者の佐藤房雄氏と時期の学生指揮者と目されていた白鳥登志雄が助川先生のお宅を訪ねたところ、当時誕生したばかりの東京混声合唱団の常任指挿者である田中信昭先生を推薦された。その足で目黒にある東混の寮を訪ね、田中先生に常任指揮者として指導して下さることをお願いしたところ、快く引き受けていただき、翌年の1月からの就任のはこびとなった。
 さらに特筆すべきことは、部員数が60名を超えたことで、単独で定期演奏会を行うべきとの機運が高まり、第6回定期演奏会と銘打ってヤマハホールにて、昼夜2回の公演を行ったことである。この70年史制作の過程で戦前にも定期演奏会を行ったことがわかったが、いずれにしても戦中、戦後を通じて初めての単独の定期演奏会を、しかも昼夜2回とも、成功させたことは、当時の部員の意気を示すものであった。

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第6回定期演奏会(山葉ホール)




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〈田中信昭先生、常任指揮者に就任〉

 1957年1月から新しい常任指揮者田中先生による練習が開始された。6月1日、2日、日本青年館で催された第6回六連合同演奏会は、田中先生の指揮による「ロシア民謡」であった。美しい「音」と音楽性を求める田中先生の指導によってアリオンの実力も確実に増し、他大学もアリオンを注目する。

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第6回東京六大学合唱連盟合同演奏会(日本青年館)

 続いて6月27日、カリフォルニア大学グリークラブの演奏会(共立講堂)に出演、田中先生の指揮でロシア民謡をうたった。
 その日、責任者・宮原寛之氏、学生指揮者・白鳥登志雄を中心とした新しい幹事会が発足した。夏期合宿は、8月22日~28日に志賀高原・渋ホテル山荘で行われ、その最終日に、信越放送で録音を行った。

 
 9月4日の部員総会で、名称を「アリオン合唱」から「アリオンコール」に変更する。アリオン創立時の団旗を見ると「アリオンコール」となっており、いつから、どういう理由で「アリオン合唱団」と呼ばれるようになったか不明だが、これ以来、名実ともに「アリオンコール」となる。
 この年から内外での活動が活発となる。大和小学校体育館落成式、法政女子高、法政一高創立記念日などに出演、学内演奏会、全法政音楽祭、木月祭での演奏を経て第7回定期演奏会に臨む。東京混声合唱団、コールアリオン(OB合唱団)の賛助出演を得て、アリオンはロシア民謡、黒人霊歌、そして「童謡メドレー・秋の夕べ」を演奏する。
 その後、12月7日、法政大学混声合唱団の演奏会に賛助出演、1月に銀座「茶廊」にて送別会を行い、1957年度の活動を終える。

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第7回定期演奏会

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く大成功に終わった北海道演奏旅行〉

 1958年(昭和33)4月、それまで応援団の手によって行われていた入学式での校歌指導をアリオンが行うことになった。当時の部長であった奥沢教授は「初めてのアリオンの合唱演奏は、入学式に相応しい厳粛な男声合唱だった」と語っている。
 この年の六連の演奏曲目は、平井康三部作曲の組曲「日本の笛」と新年度に入る前の3月の段階で決まっており、4月16日より練習に入る。ところが5月に田中先生が「第1回ヨーロッパ音楽祭」に招待され渡欧することとなったため、幹事会と田中先生との協議により白鳥氏の指揮で臨むことを決定。平井康三郎氏に直接指導を受ける。これによって、団員に歌う心が理解され表現力が深まり、6月14日、15日、共立講堂で行われた本番では、すばらしい演奏を披露することとなった。
 六連を成功裡に終えたところで新旧役員交代が行われ、責任者・栗栖哲郎氏、学生指揮者・皆川暁郎氏を中心とする幹事体制が発足する。
 8月になると、かねてから企画された北海道演奏旅行の準備に入る。13日から20日まで山形県蔵王で合宿。20日から北海道に向かう。この演奏会は、前回の静岡演奏旅行と違って、主催・法政大学、後援・法政大学校友会、法政大p40.gif北海道演奏旅行中の田中先生と永井氏(長万部駅にて)学文化連盟、北海道教育委員会、北海道放送、北海道新聞社、室蘭民放、函館芸術協会とバックがしっかりしているうえ、団長が奥沢篤次郎教授(アリオン部長)・指揮者田中信昭、白鳥登志雄、ピアニスト田中瑤子、副団長・演奏旅行責任者・滝本登という静々たるメンバーで、各地で、絶賛を博した。(なお公演地は、函館、室蘭、札幌、小樽、帯広、釧路の6カ所)。
 なお、函館から室蘭に向かう途中、長万部駅で、アリオン創立にかかわったという駅長の永井敏男氏(故人)と急行の停車時間3分間延長して話し合うことができた。アリオンの名づけ親がこの永井氏であることがわかり、この70年史制作にあたって連絡を試みたが、氏はすでに故人となっており、夫人のセエさんから貴重なお手紙や写真の提供をいただいている。

 この演奏旅行は、北海道の合唱フアンを魅了し、新聞でも絶賛されたが、その中の一つを紹介しておこう。
 演奏旅行の成功に力を得たアリオンは、秋になっても充実した活動を行った。10月には東京都体育館で行われた「合唱の祭典」、全法政音楽祭(サンケイホール)に、11月5日には、芥川也寸志作曲の新学生歌「未来圏から吹く風」の発表会(都体育館)に出演した。
 11月26日、文京公会堂での第8回定期演奏会では、ロシア民謡、日本の苗に加えて、ドイツロマン派の歌曲集に挑み、新たな境地を切り拓いた。その後、29日、法政大学工学部祭(読売ホール)で演奏。
 さらにこの年度には、それまでの送別会に代わって、1959年3月15日にヤマハホールでフェアウェル・コンサートを行っている。               

(白鳥登志雄・庄司光郎)

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第8回定期演奏会

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当時のすがた

川守田佐一郎(昭和25年度卒)

 昭和25年度卒業といえば終戦の年に大学へ入学した連中という事になるが、その当時社会の置かれたポジショソは大きな意味がある。日本の国が初めて経験した敗戦という悪環境に置かれ、人間としての生活体系がみじめに破壊された最低線の中で大学生活を送ったという極めて意義深いものであったという事が先ず前提となるからだ。戦後アリオン合唱団を再興し活動の機会を作った最初の族が我々という事になるのだが、国民すべてが日々の生活に追われていた時代であった背景で、反動として文化活動に対する学生の燃える情熱は盛んになった。

 アリオン合唱団は小生と同窓の塚本吉成君を中心として、指揮者であり又練習責任者として彼のもと結束は固かった。当時は前に記した様に生活上殆んどがアルバイトをしていた関係で出席もまちまちであり、校内文化連盟から合唱団としての予算を得てもあまりにも少額であり、又団員各自からの月額百円の会費も簡単に集まらず運営には四苦八苦の状態で、皆質素な学生服を着て(小生は学年魂をもたずよく他人から貸してもらったものだ)ガリ版の楽譜を大切にして練習したものだ。しかし合唱祭とか創立70周年文化祭などの行事には目を輝かし皆練習に顔を出しその成果について一喜一憂した。本校に木造二階建の学生ホールというのが24年頃に出来て、そこが最も唯一の大切な練習場であった。冬などほ火気一つなくオーバーを着ながら遅くまで練習した事が想い出される。
 現在は社会の中堅人物として各自多忙な人生を送っていると思うが尽きぬ想い出はまだまだあるし、又の機会に紹介しよう。         

(第20回定期演奏会記念「ありおん」より)
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“聞きほれるフアン’’
法政大学合唱団の演奏会

 本道演奏旅行中の法政大学アリオン合唱団の演奏会が22日社会会館で行われた。午後6時半開漬からの一般公演に先立って、午後2時半から市内の小・中・高学校を前に練習演奏を行った。-(略)-

約1時間にわたって男声合唱団の美しいメロディーが高く低く流れ、詰めかけた生徒たちから盛んに拍手が送られた。
 また、午後6時半からの一般公演では一部、二部にわかれ、16曲の合唱と田中瑤子さんのピアノ演奏が約2時間にわたって会場をぎっしり埋めた音楽フアンをうっとりさせた。

~1958年8月23日付
 北海道新聞より抜粋~

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55年館、58年館の竣工(法政大学新聞  昭和33年10月25日(土))

 55年館、58年館竣工時の法政大学新聞に、岡本太郎・宗左近両氏の談話記事が掲載されている。  
 

素晴らしい58年館 岡本太郎(談)

 法政の五十八年館は実にすばらしい。私が見た世界の大学建築の中で、光線の考察や設備の点で群を抜いている。学問する場として明るい雰囲気を保っている。昔は大学というとすぐに暗いレンガ造りのいげんを持った建物を連想したものだ。しかしこれからの大学は、生活空間として自己の進む道の土台を築き、広い視野での教養をつむべき「場」として捕える古めかしい学問でなく、広い意味での学問、社会人として大学を考えるべきだ。世界の大学特に西欧を中心とした近代の大学は、学究としての学問と、教養としての学問を別の問題として、考えている。仏のソルボンヌ大学などは、暗い建物の雰囲気だが、それは学究をする学徒の場としてはそれなりにいいのかもしれない。だが、少なくとも日本の大学では、学問を通じて生きていく(職として将来生きてゆく)学生の数は限られている。それ故、過去の大学建築のように外観を重んじて室内の設備の点で不備であったのを改めて、法政の建築のように内外ともに新しく整った建築にしていくほうがいい。最後に古い建物を壊した後の広場を、いかに庭園として新しい建物との調和を整えるかが新しい建物を生かすか殺すかの一番の課題だろう。

おもしろい建物  宋左近(談)

 法政大学の五八年館はいろいろ面白い建物だ。まず野放しなところが面白い。近代ぶってるくせに間抜けているところが愉快だ。オラ嫌ニナツチヤッタダ、と言ったたぐいの、イハカラぶった田舎者みたいな味がある。西洋映画の影響で田舎のアンチヤンも近頃はなかなかイカシますよ。ニキビ面のエネルギーもある。学校建築としては一流です。だが建築作品としては二流です。一番の欠点はピロティ、及びその二階三階。あのふやけたカステラみたいな屋根はなんです。タキシードの上に手拭のほほホホカムリ、所謂大内山の造園もゼロ、ビルの屋上によくあるオイナリサマ的な趣味。
 内部に入ると一層ガツカリ正面ピロティはなぜ開放しないのか、二階理事室前の廊下はなぜ通行止めか。封建臭たちこめてる。故障して糞尿のつまった水洗式便所みたい。しかし建築ってものはそこに住んでる人の営む生活と歴史とで美しくも醜くもなるものです。そこが、他の芸術と違う面白いところ。従って、五八年館を美しくするのは、皆さんの責任です。

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