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アリオン100.jpg法政大学アリオンコール HISTORY

第五章 新たなジャンルへの挑戦(1959~1997年)

〈団員の急増、関大グリークラブとの交流開始〉
(1959年-1963年)

 1958年(昭和33)度卒団の宮原・白鳥体制で盤石の土台を築いたアリオンコールは、1959年から新たな発展の道を歩む。一つは団員の急増、もう一つは他団体との交流の活発化である。
 新しく3年生になった人たちの団員獲得活動によって、1959年の新入部員は50名をはるかに超えた。東京六大学合唱連盟第8回定期演奏会のステージにのぼったメンバーは100名以上になったが、その半数は1年生だった。当時の六連の演奏会は6月上旬に行われたのでそれが可能だったのだが、次期学生指揮者とされてたいた川喜田敦氏(3年生)による1年生だけの特訓によるところが大きい。

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第8回東京六大学合唱連盟定期演奏会

 六連が終わると幹事の交替が行われ、責任者に千葉(現姓高橋)剛良民が選出される。学生指揮者には予定どおり川喜田氏が任命され、高橋・川喜田体制となる(当時、責任者は全団員の無記名投票によって選出し、他の幹事は、前幹事会と選出された責任者の協議のうえ、責任者が任命するとされていた)。新幹事会体制になったものの、すぐ夏休みに入るため、実際の活動は8月下旬におこなわれる夏季合宿から始まったといってよかった。
 この年の合宿は、福島県猪苗代湖畔の天鏡閣で行われた。元・宮様の別荘だっただけに建物は立派だが自炊だった。そのため某料理学校の生徒に食事作りを依頼したが、彼らは、大勢のご飯を炊いたことがないこともあって、時には半炊きのご飯を食べさせられた。この合宿への参加者も1年生が多く、とくにバリトンは幹事を除いた上級生の参加はわずか3人で、おとなしい上級生を奥の小さな部屋に追いやり、わが物顔にふるまった。あげくの果てに、禁じられていた飲酒が露顕し、それまでパートごとに交代で行われていた食事当番を、罰則としてバリトンの1年生がやらされたり、2年生にお説教されるなどの事件もあった。
 定期演奏会をはじめとする活動については別の揚で紹介されているので省くが、ここでふれておかなければならないのは、定期演奏に向けての強化合宿が、神奈川県の大山で行われたことである。その後この強化合宿は定例化される。
 定期演奏会が終わると、間もなく冬休みに入り、1月下旬から2月下旬まで期末試験に入ったので、冬休み後1週間練習して、4月からの活動予定が発表されるぐらいで、活動らしい活動は行われなかった。
 1960年4月に入ると、恒例の新入生勧誘活動が行われた。前年ほどではないがかなりの新入生が入団してきた。しかし学内は、60年安保闘争で騒然としており、練習に集中できないとのことで、5月のゴールデンウイークに、六連に向けての強化合宿が行われた。六連での演奏曲がモテットとマドリガルという、これまでアリオンが手がけてきたものと全く違ったジャンルのものだけに、仕上げに大変苦労した。練習は就寝直前まで行われ、まさに強化合宿の名にふさわしいものだった。
 ここで記録しておかなければならないことは、この年の六連では合同演奏が行われなかったことである。各大学が自分たちの練習が大事だから合同演奏のための練習時間をとることができないという意見が大勢を占めたためである。そこで最後のステージは、各大学の応援歌か学生歌の合唱で終わったのだった。

 六連後、可知栄次郎氏が責任者に選出され新しい幹事会が発足した(学生指揮者は2年生の庄司光郎)。安保闘争が最級段階に入っていた状況での初仕事が、あのデモ隊が国会に突入し樺美智子さんが亡くなった6月15日の法政大学の校歌及び応援歌の録音だった。録音終了後、可知キャプテンは、「国の重大の進路がかかっている時だったので、われわれも国会デモに行きたかったし、行くべきだったかもしれない。しかし部の活動として、以前から決められていた約束を破るわけにはいかなかった。デモにはいけなかったが、一人一人安保条約について考えることが、われわれ学生としての努めである」と語った。その頃、国会構会でデモ隊と警官隊が衝突し死者と多くの怪我人がでていたことは知るよしもなく、帰宅して呆然とテレビから流れる光景を見ているしかなかった。
 安保闘争の影響もあって合宿所探しが遅れたため、夏の合宿も大山で行われた。そのあとで、宇都宮で演奏会を行うことで夏の行事として格好をつけた。
 この年度の活動で特筆されるべきことは、関西大学グリークラブとの第1回交歓演奏会を行ったことであろう。この交歓演奏会をめぐっての話は60頁と61頁に書かれているので、そちらを参照して欲しい。ただ法開交歓演奏会のあおりをくって、第10回記念定期演奏会が非常に寂しいものに終わったことは、当時の六連マネージャーの矢元一行氏(故人)が、この記念演奏会のために、いろいろ心をくだいていただけに残念なことだった。いまはなき矢元氏のために、一言ここに記録しておきたい。

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第1回法関交歓演奏会

 そのほか、可知執行部が行った新しい活動が二つある。一つは卒団式でもう一つは定期演奏会から新年度までの活動の穴を埋めるための春の合宿である。卒団式の形式は現在も続けられ、春合宿も現在も行われているが、現在のような六連のための強化合宿とは違って、新入生勧誘の準備とスキーを楽しむ、のんびりとしたものだった。
 1961年4月に入ると新入生勧誘とともに六連のための練習を開始する。この年の演奏曲目は、1月の行われた前年度定期演奏会でうたった「風の中で唄う空っぽの子守歌」だったので、1年生の指導中心の練習で、上級生は六連の合同演奏曲の練習に力を入れる。六連演奏会は第10回記念に当たり、それまでと違った取り組みを行った。これは六連の歴史上おそらく後にも先にもないことだと思われるので記録しておく。
 1960年の六連で合同演奏をやらなかったことに対する批判が、さまぎまなところから寄せられていた。アリオンでも、合同演奏をやらない六連は、単なる「競演」であり、順位を決めないコンクールのようなものだとの意見が強かった。こうした幹事会の意見を受けて、矢元六連マネージャーは、「演奏会に指揮者の意見が反映されないようなあり方はおかしい。六連の指揮者会議を行うべきだ」という意見を六連マネージャー会議に提案、他校の賛同を得てはじめて六連指揮者会議が持たれた。その席上、この年の当番校の慶鷹の指揮者の伊東氏が「本来、演奏会についての責任を持つのは指揮者である。したがって第10回六連定期演奏会の内容については指揮者会議で決めるべきだ」との考え方を示したが、他の指揮者も同意見であり、マネージャー会議もそれを承認し、指揮者主導の六連公演が行われたのである。

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 九州演奏旅行・福岡公演のあと「しいのみ学園」の子供たちとともに

 責任を持たされた指揮者会議は、まず、前年に合同演奏を行わなかったことの反省と第10回目の記念演奏会であることから、合唱演奏を充実させることで合意した。さらに六連の合同演奏にふさわしい曲ということで、ワーグナー作曲のオペラ『タンホイザー』のなかの「巡礼の合唱」、『さまよえるオランダ人』のなかの「水夫の合唱」を、原語、暗譜でやることを決定、指揮を前田幸市郎氏にお願いした。併せて合同練習を5回も行うことにしたものだから、各校の反応は一様ではなかった。慶應、東大、立教、法政はこの決定に積極的に賛同、練習にも出席したが、早稲田、明治は消極的だったように思われる。また、この年以外は演奏順番は一定の方式で機械的に決められているが、第10回演奏会は、各校の演奏曲を見て、指揮者会議で決め、二日の公演とも同じ順番で行われた。内部の反応はさまざまだったが、演奏会はそれまでにない新鮮なものとなり、大成功に終わった。
 しかし、演奏会は成功したが、マネージャーの反発は強く、以後、指揮者会議が持たれることはなくなり以後、六連定期演奏会は完全にマネージャー会議主導型で開催されることとなった。その善し悪しはともかくとして、第10回定期演奏会が指揮者会議主導のものだったことを記録しておきたい。
 1961年の六連演奏会のあと、小林幸久氏を責任者とする幹事会が選出される(学生指揮者は庄司の留任)。この新しい幹事会が最初に手がけたことは常任指揮者の交代であった。これについては、必ずしも正確に伝えられているとは言えないので、事実をはっきりと記しておきたい。
1958年の渡欧を機に常任指揮者の田中先生のアリオン指導機会がめっきり減っていく。とくに1960年になると極端に少なくなる。法関交歓演奏会との関係から61年1月20日に第10回定期演奏会に延びたこともあり、定期演奏会前日の練習も当日の舞台練習も学生指揮者がやり、ほぼぶっつけ本番という形だった。六連の練習も定期演奏会でやった曲ということもあり、あまり練習にきていただけなかった。関東の大学合唱団では、プロの常任指揮者の占める位置が大きかったため、練習にきていただけない常任指揮者は問題だとの理由で、田中先生に代わって荒木宏明先生を常任指揮者として迎えたのである。

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第11回定期演奏会

 次に、小林・庄司執行部は、1961年第11回定期演奏会後、規約の改正を提案・幹事会の任期を、それまでの3年生の六連後から4年生の六連までというものを、2年生の定期演奏会後から3年生の定期演奏会までと変更した。
 ①大学合唱団の最も重要な活動が定期演奏会であるから、1年間活動体制は定期演奏会を中心に立てられるべきであること、
 ②4年生の就職活動のため、実際は4年生になると早々アリオンの活動から身を引く状況なので、年初から次の代に責任をもってもらう方がスムースな運営が行われる
という二つの理由からである。
 この規約改正により、1962年3月に計画されていた九州演奏旅行の責任は、大田尾健次氏をキャプテンとする次期幹事会に移される。この演奏旅行の実質的な企画者であり、地元との交渉に当たった3年生の福島紀康マネージャーはそのまま任務を続け、その福島氏と次期六連マネージャーの竹下克彦氏、渉外マネージャーの秦信一郎氏によって、九州演奏旅行が実現する。
 この演奏旅行は、当初、福岡、熊本、都城、宮崎、大分での公演の予定だったが、直前になって熊本公演が中止となり、経済的に非常に厳しいものとなった。しかし、重度身体障害者施設「しいのみ学園」への慰問、福岡公演への園児の招待、あるいは小学校などでのミニ演奏会、また直前に入った五島列島大島の公演などを行い、貴重な体験をする。
 九州演奏旅行から始まった1962年の大田尾・篠田守弘(学生指揮者)執行部は、演奏旅行でつくった赤字解消策に苦しみながら新しい活動に力を入れる。6月、東京都体育館(千駄ヶ谷)で行われた第1回ジュネスミュージカル(NHK主催)の合同演奏でシベリウスの「フィンランディア」をうたったが、12月の第2回公演では、ヘンデルの「メサイア」の合唱メンバーとして参加、他の大学合唱団をリードし中心的な役割を果たす。またオール法政音楽祭でも、前年のオーケストラ伴奏・全合唱団体による学生歌「未来圏から吹く風」の斉唱の経験を発展させ、それまでの単なる文化連盟加盟の音楽団体の競演に終わらせるのではなく合同演奏をすべきだと提案、オーケストラ、混声合唱団、外濠コールとともに「フィンランディア」の合同演奏を成功させた。さらに校歌の新しい編曲を田中信昭先生に、学生歌「青春の燦火」の編曲を増田順平氏に依頼、すでにあった「オレンジの園に」とともに、現在の校歌、学生歌の演奏スタイルを完成させた。

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〈田中氏の再招聘と邦人委嘱作品路線〉              (1963年~1997年)

 第12回定期演奏会後の総会で、菊地宏雄氏が選出され、学生指揮者として木村穂氏が指名された。その後、菊地キャプテンは、常任指揮者として、再度、田中信昭氏を招嘱することを提案する。この重大な提案に対して、4年生は卒業していく身であることと、その発言には影響力が強いとの理由から討議と決議には参加せず、1~3年生の決定に従うことにした。菊地提案は圧倒的多数に支持され、常任指揮者の交代が決定された。
 田中先生は、再度の常任指揮者就任の要請に対して「もう常任指揮者にすべてをまかせる時代は終わった。常任指揮者が代わっても、その団体としての演奏ができるような、学生としての自主的な態勢づくりが必要だ。それができるなら引き受けよう」と答えた。
 そこでOBの川喜田敦氏を専任指導者に就任することを依頼、現役団内に技術部をつくって、田中先生の提案に対応したうえで、田中先生には常任指揮者ではなく顧問指揮者として就任していただくことにした。この体制は、川喜田氏は65年に退任するが実態はともかくとして基本的には現在も続いている。
 1963年度の菊地・木村執行部で特筆されることは、2年間とだえていた関西大学グリークラブとの交歓演奏会を復活させたことであろう。この年も東京と大阪の2回公演だったが、第1回の時は遠征メンバーは50名で打ち切り、その50名の宿泊代はそれぞれの公演地の団が持っていたものを、公演地の団員の自宅や下宿に分宿することによって経費負担を少なくしたことは新しい試みとして高く評価してよい。65年から大阪と東京との交代による年1回公演とし、現在に至っている。
 1963年の六連第12回定期演奏会の中村茂隆作曲「三つの盆踊唄」で田中先生の再度の指揮が始まったわけだが、そこからアリオンの演奏曲目が邦人作品に偏っていたわけではない。島塚光氏をヴォイストレーナー迎え、その島塚氏の指揮で宗教曲も演奏した。田中先生自身も「グレゴリオ聖歌」の指導を行ったり、六連の・合同演奏でシューマンの「モテット」をとりあげたりもした。法開合同演奏で「黒人霊歌」も演奏するなど(1976年)、民族によって、それぞれの特徴を持ったさまぎまな音楽を経験することが大事だというのが田中先生の姿勢だった。
 1966年、田中先生はフルブライト留学生としてアメリカで学び、その後ヨーロッパを回って帰国する(1966年は客演指揮者として東混指揮者の故宮本昭嘉氏を招き、六連、定期演奏会で「牡丹と獅子」を演奏)。

 その後、田中先生は民族性を大事にした音楽活動に入っており、バルトークやコダーイの音楽をとりあげたりしたが、先にあげた法閲での黒人霊歌の演奏も、その一つの流れだったと思われる。しかし、その究極としては、その時代、時代にあった秀れた作品を演奏することこそ、本当の合唱活動との思いが、東京混声合唱団の定期演奏会での委嘱活動として明確にされていった。その延長線上のものとして、アリオンは、1968年、間宮芳生氏へ「合唱のためのコンポジション第6番」を委嘱する。その後、第20回定期演奏会で、三善晃氏への委嘱作品「王孫不帰」が世に送り出され、別項で紹介するように、委嘱活動が定例化する。さらにOB会からの5年に1度寄付と1992年につくられた「法政大学アリオンコール委嘱支持会」制度によって、最近では、毎年委嘱作品がつくられている。
 現在では、女子大合唱団との交流はあたり前のようだが、それが最初に行われたのも1963年で、アリオンの申し出を受けてくれたのは東京家政学院短期大学コールKVAだった。
 このように委嘱活動が活発になった以後のアリオンの活動スタイルは、あまり変化はない。記録しておくべきことは、不定期だが東北学院大学グリークラブとの交流を行っていることだろう。1984年に第1回交歓演奏会、89年には北海学園大学グリークラブを加えた第2回演奏会、94年には第3回の演奏会を行っている。
 1964年以後の活動スタイルは基本的に変わっていないことと、各年代活動は、年度ごとの報告や年表に詳しく述べられているので、紙数の関係で通史としては省略する。
 1970年代に入ると、学生生活の多様化、経済学部、社会学部の多摩校舎への移転などにより、団員数が次第に減少していく。
70年代中頃回復の兆しも見えたが、近年、年代によって増減が激しく、不安定な状態が続く。とくにここ2、3年の団員の減少傾向を止めることができず、活動も苦しくなっている。このような傾向は、アリオンだけにかぎらない、各大学合唱団、あるいは各クラブに共通の悩みであるが、70周年を契機として、現役、OB一体となって団員増にとり組むことが課題と言えよう。                        

(庄司光郎)

 この中で庄司氏は、「1970年代に入ると(中略)団員数が減少していく」と書かれているがこれは誤りで、多摩校舎への移転が始まったのは1984年からで、団員の減少が始まったのは、1980年代後半である。1983年頃が団員数のピークであった。さらには、せっかく庄司氏がここで「70周年を契機として、現役、OB一体となって団員増にとり組むことが課題と言えよう。」と書かれていたにもかかわらず、これ以降団員減少に拍車がかかり、一時は団員1桁代の危機にまで至るのである。ちなみに庄司氏の原稿に出ている「東北学院大学グリークラブ」は2013年現在の団員は7名、「北海学園大学グリークラブ」は2011年に混声合唱化している。(F.S)


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