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アリオン100.jpg法政大学アリオンコール HISTORY

顧問指揮者40年 ロングインタビュー「田中信昭先生とアリオンの40年」

 この度、法政大学アリオンコール顧問指揮者就任40周年を記念致しまして、田中信昭先生にインタビューをお願いしました。アリオンにおける活動にとどまらず、これからの合唱界への提言を熱意たっぷりに語っていただいた先生。ますます今後の活躍が期待されます。

実施日・1997年2月24日 田中信昭先生自宅
出席者 田中信昭先生
    鬮目幸司(平成6年度卒)=K(中央)
    小泉徹邸(当時現役2年)=T(右)
    杉野芳雄(当時現役2年)=S(左)

監修  田中信昭先生(1998年3月)

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K:本日はお忙しいところありがとうございました。今回はアリオンと先生の40年を振り返りながら進めます。まず最初にアリオンコールの指揮を担当することになったいきさつは?

田中:1956年の夏の終わり頃、東混の練習所にOB会長の小島さんが数人の学生を伴って来られ、いきなりアリオンコールの常任指揮者になってほしいと言われたのです。それがきっかけ。

K:アリオンコールという合唱団は御存知でしたか?

田中:もちろん六連の中で活躍していることは知っていました。その程度です。

K:最初にアリオンコールの練習に来られた時の印象は?

田中:非常にきちんとした合唱団で、好感のもてる団体でした。60~70名くらいでしたか。

K:先生にとっては、やりやすい合唱団でしたか。

田中:みんな素直で、非常にやる気があって、まさかその時はこんなに長くやるとは思ってもいませんでした。

K:ちょうど顧問指揮者40周年です。

田中:常任になると学生の中に私が入り込んでしまうことになるので常任指揮者にはなりたくなかった。学生の部活動は学生の自主的な活動の場であって、外部の人間が権力を持ち過ぎると学生の部活動ではなくなってしまうので、それを避けようと思ったのです。

K:あくまで指揮者として?

田中:だから変な名前だけど顧問として、演奏会の時は振るからその時は指揮者として。

K:今でも顧問指揮者として呼ばれていますが。

田中:顧問指揮者なんて存在しえない変な名前です。しかしあくまでも精神はそういうことです。今でもそう思っています。

K:その頃演奏されている作品は殆ど先生が編曲なされていますが。

田中:その頃はいい男声合唱曲がなかったということもあるし、それから今と違って合唱界のレベルもそんなに高くなかった。まあ、それで3和音をハモルというような構造の曲がやられていたわけです。それでも音が合わなかったり、アンサンプルの基本としてやらなくてはいけないことが多くあったので、そのような種類の曲を楽しくやっていた。

K:ご自分で詞を書かれられてもいます。筆名の門えりおさんですが。

田中:えぇ訳詞です。それは外国曲をやるにあたって、外国語では、歌っている本人が実感がなく、それでは歌にならない。またどんなに素晴らしい発音で歌っても、言葉の意味をきちんと理解して歌ったとしても、こんどはお客には通じない。両方でわからないものを歌う必要もないし、だから実感をもって歌えるために訳詞にするべきだと思った。それで門えりおに頼んだ。これは自分なんですけれど。かなり訳詞はやりました。アリオンに限らず。オペラなども多く訳しました。それまでにあった訳詞は必ずしも旋律やハーモニーに言葉があっていないので、その旋律にあった詞をつけた。

K:その時の団員の印象は? やはり日本語で歌ったほうが歌いやすかったですか?

田中:やはりそうだったと思います。その時、私は学校を出たばかりで芸大でドイツのロマン派の歌曲を徹底的にオーストリーの先生について学んでいたから、意味もわからずに歌うということは考えられなかったわけです。歌というのは言葉が詩がどのように作曲家によって感じとられて音楽に姿を変えたか、そこが非常に大事な点です。その点をいい加減にして演奏するということはその曲の本質にせまっていない。だから意味もわからず外国語で歌うという演奏のあり方について積極的に反対をとなえたわけ。

K:少しアリオンとは離れてしまいますけど曲自体はヨーロッパの言葉にあわせた旋律なのにそれに無理やり日本語を入れるということは?

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初めてのアリオンを振る田中先生
第6回六連 1957年6月1日

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田中:確かに無理やりなんだけど、私の訳詩をするときに心掛けていることは、まずその単語の位置に、その単語の訳詞を入れる。つまりずらさないで入れる。そしてイントネーションとアクセントとがあう言葉を探しまくるわけです。それを歌った時、文章が横に流れて不自然でなく意味を伝えられるような、そのような訳詞でないと訳詞の意味がないし、そうなっていないのは訳詞ではないと思っているわけです。

S:やはり母音などもあわせてやられたのですか?

田中:それはできれば尚いいのだけれど、ぴったりうまい言葉がはまるということは奇跡に近いのです。で単純な民謡とか気楽な曲の場合は、つまり純音楽でない場合は、その旋律に最も意味が相応しい言葉を新しくつくるということもやりましたけれど、それはそれでいいと思っています。ただその時に日本語の言葉として生きた言葉でないといけないと思います。

K:アリオンの歩みにお話を戻すことにしまして、1957年から振られ始めて、1960年に第1回の法関交歓演奏会が開催されました。その時のエピソードでもありましたら。

田中:きっかけをつくったのは誰でしたかね?

K:川喜田先輩と関大の西尾先輩のお二人が三重県の高校で一緒だったからと聞いておりますが。

田中:そうですよね。川喜田さんという大変優れた学生指揮者がその当時いて、私がアリオンを振り始めた時、1年生で入ってきました。この人たちが中心になって法関のきっかけをつくった。

K:その時は関大の方はまだ振られていないようです。

田中:そうでしたかね。合同も振っていませんでしたか?

K:合同は関大の学生指揮者が振られていたようです。

田中:そうです。最初は確か、学生の方の企画に従ってアリオンのステージを振りに行っ
てました。(その後の調査で合同演奏の指揮をされたことが判りました。)

K:「月光とピエロ」とか、その時に振られています。

田中:その頃は「月光とピエロ」ぐらいしかいい男声合唱曲がなかった。

K:ちょうどその頃、今も歌われていますエール(法政大学校歌)の編曲をなされているようですが。それはどのようなきっかけでなされたのですか?

田中:きっかけは、その頃の若い人達に相応しいようなものになればいいなと思い書きました。

K:時代は飛んでしまいますが「シュプレヘン」というのは先生の企画だったのですか?

田中:それは何年頃でしたか?

K:林先生の「シンポジウムⅡ」の最後に出てくる部分からヒントを得たと聞いております。1972年です。

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春合宿にて団員と大山へ登る 1960年5月

田中:そんな前でしたか、いや「シンポジウム」からとったわけではありません。60年代から、それまでの3和音をはもらせて歌うだけでない、そして調性のない音楽とか即興性とか偶然性の音楽が世界的にはやっていた。校歌というものを、ただ譜面通り、指揮者の指揮通りに歌うというだけでなく参加している学生の一人一人が自分の意志で自分の発言をできる揚があればいいなと思いそれを具体化したわけです。

K:残念ながら最近では殆ど公的な場では演奏されていないのですが。

田中:それは別にやめたというわけではなくて、音楽というものはこうでなければいけないというものではない。その時その時の主張を打ち出すことが大切で、その日にやる演奏曲目とのバランス、関連性が感じられない場合はやらないのです。

K:六連でやられた時、他の学校の先生からかなり批判されたと聞いておりますが。

田中:ある人が「まずいじゃないか」と言ってきましたが、お前のところの校歌の編曲は悪いじゃないかといっているのと同じであり、これは大変失礼なことです。だから、私は決してその意見に屈することはありませんでした。やめたのは自主的な理由からです。

K:私も含めて、最近の学生は「シュプレへン」を演奏会では歌ったことがないわけです。演奏会ではやっていませんが時々内輪でやっています。一番、最後の和音はかなりの不協和音ですが。「アリオンコール」と歌う部分。

田中:これはシュプレへンのおさめ方に合うようにしたわけです。

K:ちょうど先生はその頃、ヨーロッパに行かれまして、その間は荒木先生に代わられ、また1963年から再び、復帰なされているわけですけれど、帰国後に最初に演奏したのは「三つの盆踊歌」中村茂隆の作品でして、いきなり民族的なものが出てくるわけですが、それまでロシア民謡とかやられてきて、やはり留学して考え方が変わったようなことがあったのですか?

田中:日本の合唱曲を日本の合唱団が歌うということはあたりまえのことで、それは東京混声合唱団をつくった時に掲げた目標の中にもあった。なぜなら歌っているのも、聞いているのも日本人だから当然歌うのは日本の作品であるのが自然です。例えばドイツの合唱団がドイツのお客の前で日本の歌を歌うというのは特殊な状況です。外国の音楽を研究し紹介するような意味でやるということは決して悪いことではありませんが、メインのレパートリーというのは当然、日本語の曲であって、それはさっき言った私の先生のネト
ケ・レーヴュ先生からロマン派の歌曲を徹底的に教わって、その時にその考え方にいたったわけで、ということは、つまりアリオンに就任した時からその考えを持っていたわけです。東混では既に委嘱活動を始めていましたが、アリオンのその時の体質、その時の現状には必ずしも相応しくないと感じていたので、私は変革をしようとして入ったわけではないのでアリオンの現状を踏まえて活動していました。そして1963年にいよいよ、そのような方向に着手したわけです。

K:今までロシア民謡をずっとやってきたアリオンが、このような民族的な音楽をやるようになったことに対して学生のとまどいとかはありましたか?

田中:それは全然抵抗ありませんでした。抵抗が出るのはもっともっと後です。

K:次の年には「四つの仕事唄」小山酒茂先生の作品が出てきて、1965年には間宮先生の「コンポジション3番」が演奏されました。その時の印象は?

田中:それまでに二つの日本民謡をやって、そのようなものを我々日本人はやるべきであってしかし、それにしては曲が無いと思っている時に「コンポジション3番」という曲が慶応の委嘱によってできました。これがまた素晴らしい演奏で木下保先生の指揮でした。是非やりたいと思っていました。「オーヒコー」「掲鼓」「引き念佛」の3曲です。今までの譜面とは違う、音のシステムが違う。日本の民謡が元々もっている節回しやハヤシコトバが、いわば新しいやり方で日本の音というものを追求してできた結果であり新鮮な印象を受けました。その代わりに学生諸君は新しいものに出会った困難やとまどいはありましたが、しかし意欲的に乗り越えました。

K:その作品の演奏と同じ頃、島塚光先生をヴォイストレーナーとして迎えて、パレストリーナのような宗教音楽を演奏しています。

田中:声について皆に関心をもってもらいたい、それと彼は専門が宗教音楽でしたので、曲を通して声楽的なことを勉強してもらいたいということだったのです。

K:民族音楽と同時に宗教音楽をやるという意味はどのようなことでしょうか?

田中:それは地球上には民族音楽や宗教音楽があります。ヨーロッパにも宗教音楽を母体とした伝統的な音楽があり、それと民族音楽は別のジャンルとして常に一緒にあったわけです。それはつまり人間が純音楽しかやらないという単純な存在ではなくて、あらゆるジャンルに興味を持っているわけですから、それを同時にやることはちっともおかしいことではないし、それをやることによってアリオンの音楽的実力をひろげようとした結果です。

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K:最近、殆どやられていないのはどのような理由からですか?

田中:まずは、ヨーロッパ音楽をやる時間があったら、新しい日本の曲をつくりたい。何故かと言うと、いい曲がまだ足りない。男声合唱曲で本当にいい曲、皆が喜んで歌う後世に残る作品がまだ非常に少ない。幸いアリオンがお願いした作品は本当にいい作品ばかりで、これは奇跡に近いことですけれど、それでも何曲ですか?

K:20数曲ですね。

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「コンポジション6番」を指揮 第18回定演
1968年11月30日

田中:その全部が残るかどうかはわかりませんが、でもかなりのものが残ると思われる。しかし20数曲では話にならない。まあ他の男声合唱団も意欲的に委嘱活動しているところもありますが、でも全体的にはまだまだ少ない。日本では男声合唱曲が500程ある、いや500じゃ足りない、そう5万だね、5万とある中に優れた合唱曲がザクザクあるというふうにならないと日本の男声合唱界が優れた活動をしていると言えない。

K:混声とか女声は素晴らしい作品が沢山ありますが、なぜ男声だけがレパートリーが偏ってしまうのでしょうか?

田中:それは混声合唱団の方が数が多いということもありますが、数が多い混声合唱団がしかも委嘱活動をしている団体が沢山できてきた、同時に日本のあちこちで演奏されるようになった。ところで男声合唱団はどのくらいあるのでしょうか?

K:数を言われてもわかりませんが、ただ日本の著名な男声合唱団はいつも同じような曲を同じように歌っているようにみえます。だから男声合唱界だけ別存在に思えます。

田中:発展性がない、創造性がないということですね。意欲的でない。何のために声を出すのかという意味の原点を失っているから、そのようなことがいつまでも続くのでしょう。そういうことで満足している団体のレパートリーというものは改善されていかない。何のために声を出すのか、何のために皆で歌い合うのか、他よりまさった演奏をするためとか、皆で和気あいあいと楽しくやればいいんだという程度の音楽への取り組み方では変わってはいかない。社会的には立派に活動している人達がやっているのに、音楽をやる時だけすごくレベルが下がってしまうということは非常に残念なことです。

K:よく男声合唱団のアンケートを見ると「よくハモっていたとか」そのようなことで取られてしまいがちですね。

田中:ハモるということは勿論大事なことで、それが出来ないようでは音楽をやる資格はないと言えるほど大事なことですが、何のためにハモるのか忘れてしまっているわけです。

K:もはや自己満足の世界のような気がします。

田中:その通り。ハモってどうするのか、ハモった音で何をするのか。それから先、発展しないわけです。今、この地球上でお互いに語り合うこと、意見を交わし合うことは、本当にいっぱいあるのに、そのようなことと全然関係ないところで、ただハモって喜んでいるということはそれは女へんに呉れると書いた娯楽の世界でしかないわけです。でも音楽っていうのはそんなものではない。そんな楽しみ方はカラオケ行って楽しむようなもので、そのような時間ももちろん大事なものですが、アリオンが目指している音楽というものは、そのようなものではなくて、何のために若者がこの大事な青春時代にこんなにも時間と情熱をかけて取り組むのか、それは友達同志でぶつかり合いが出来るような若者が、世界に向けて言うべき事柄でないと意味がないでしょう。そのような曲を探し求め、今まで優れた作曲家や詩人にお願いしてつくってきた。

K:これもアンケートですが、アリオンは古い音楽を知らないで、新しい作品に取り組むのは問題ではないかということがよく聞かれますが。

田中:古い音楽を知るということはどのようなことでしょうかね。ヨーロッパの古い音楽を1曲や2曲、あるいは10曲ぐらいやっても音楽の歴史を知れるわけではありません。それに殆どがキリスト教の文化としての音楽ですよね。「キリエ エレイソン」というのをどういうつもりで歌うのか。もしヨーロッパの人が仏教の曲ばかり歌っていたら変じゃないですか。

T:昨年「修二會讃」(柴田南雄作品)をやった時思ったのですが、今の若者の中で、「俺は仏教徒だ」というのはあまりいない。生活の中に仏教が入り組んでいることも多々ありますが日本人はキリスト教にせよ仏教にせよ中立的な立場にいます。だから演奏できるのでないでしょうか?

田中:日本人はキリスト教のことは浅いけど漠然と判っている。仏教の方も判っているようだけれど日本の古い音楽については何も知らない。つまりミサ曲は知っているけれど、声明は誰も知らないわけです。全くおかしいことです。いろんなことがあることを知った上でキリスト教の文化やるならば、それはいいと思う。ヨーロッパの音楽をやる時間があったらその前に日本のものを広げていきたい。そのことに時間をかけているためにヨーロッパ作品はつい後回しになっているわけです。

T:「修二會讃」の演奏の時ですが新人団員にとってはこれは仰天な曲だったし、はっきりいって受けが良くなかった。お経そのものでしたから。文化的には優れたものだとは判りますが積極的にお経を唱えようということにはなりませんでした。

田中:そうです。その通りです。しかしそれは積極的にキリスト教の音楽をやろうという気にならないと同格でしょ。で日本人はキリスト教の方に何の抵抗もなくすうっといっていまうのは何故だか判りますか?

T:音楽に限らず文化というものが今はキリスト教の世界、西欧の世界のスタイルで形成されているからでしょうか。

田中:なぜ日本人がその文化を何の抵抗もなく受け継いだのか判りますか?あなたが今、日本の古来からある伝統的な文化に触れた時に抵抗があるというのはどうしてなのか判りますか?

T:それは日本の文化を伝えてこなかったというか、知らなかったというか。


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田中:なぜ伝えなかったのでしょうか?なぜ西洋の音楽の方をこんなにも知っているのか判りますか。明治の初め西欧の文明を取り入れた時に、文化、教育に西欧のやり方を導入したからです。特に音楽教育には文部省がアメリカ経由の洋楽教育を取り入れたからです。日本中でドレミファ教育が行われ、音楽といえば西洋音楽のことになってしまった。そしてそれは合理的なシステムだから全体教育に適していたので、すっかり広まり定着したのです。しかも西洋音楽は歴史が長く優れた作品が沢山あり聞く人々を魅了した。バッハ、モーツアルト、ベートーヴェンなどの素晴らしいキリスト教文化を追いかけているあいだに、一方でわれわれの伝統文化に疎遠になってしまった。ミサ曲は知っているが声明は知らない。それに西洋音楽と一口にいっても民族によってそれぞれ独自の特徴があり、それはそれらの人々の生活の歴史の中から生まれ結晶したものです。彼らがそれらを演奏するのは自然であり素晴らしい行為であるわけです。われら日本語の文化圏のなかで生まれた音楽が欲しいというのは当然おこってくる要求です。例えば東大寺の二月堂のお坊さんたちの声明は素晴らしいから、彼らがヨーロッパで演奏したときお客は感動した。だっていいものですもの。バッハは本当に素晴らしいよね。それは人類の誇りですよね。同じ人類の中にあんな素晴らしいことをした人がいるなんて。それを世界中の人が知っているなんて素晴らしいじゃないですか。それは全世界共通の誇りです。だからヨーロッパの音楽も私はやりたい。ロマン派の音楽ってなんて素晴らしいのだろうと自分では思っている。だけど私はアリオンの人達と別にやろうとは思わない。つまりそれはアリオンの人達がそれほどドイツ語を知っているわけではないから。ドイツ語を熟知しないで歌っても無意味じゃないですか。そうでしょ日本語を知らない人が日本語を歌っても、無意味じゃないですか。ミサがなんであるかも知らないでやるなんて意味がない。その儀式を知らず。ただ音がきれいだからというのでやっているだけでは。だからヨーロッパの合唱団が彼等の音楽をやっているように、日本の合唱団がいろんな日本の曲をやれるようになった時に対等になれる。その時に日本の音楽界が優れたものだと言えるようになる。そのためには日本中でどんどん優れた日本の曲をつくらないといけない。ということにかまけているうちにヨーロッパのものをやることが後回しになっているわけです。

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第18回定演打ち上げにて
右より田中先生、奥澤教授、島塚先生

K:1968年に間宮先生にコンポジション6番を委嘱、これが委嘱活動の始まりだったわけですが。

田中:間宮さんのコンポジション活動は1958年からで1番は東混の委嘱です。この作品は大変センセーショナルなものでした。そのような日本の伝統的な白本民謡による新しいコンポジション、新しい作品が欲しい。そのような活動をなされている間宮さんに一つアリオンのために書いていただきたいとお願いした。予想どおりというか期待どおりの作品ができました。

K:学生の方は委嘱をやることに対してどのような感じでしたか?

田中:その時は全く抵抗もなく意欲的に取り組んでくれました。それは小山滴茂作曲「四つの仕事唄」中村茂隆作曲「三つの盆踊唄」に続いてやったからですね。

K:ちょうどその頃は学生紛争があった頃ですが、アリオンの学生の考え方はどうでしたでしょうか?

田中:表面的には表れませんでした。そういう新しい展開を学生たちが一緒になって取り組んだということは新しい時代をつくろうという若者の意志のある結果でしょう。

K:当時予定されていた沖縄演奏旅行も中止になっています。そしてその頃、黛敏郎の「始段唄・散華」の演奏もありました。

田中:日本人の日本語の生活している我々にとっての文化であるところの作品である、つまり生活の中からでできた作品が欲しいと思った。そのような作品をどんどんつくってもらわないとならない。今正に演奏に携わっている演奏団体とか指揮者が本当に真剣になって取り組まないといけない問題であって、そうでない限り永久に出来ないと思ったわけ。

K:そののちに「王孫不帰」(三善晃作曲)、「シンポジウム」(林光作曲)と続いていくわけですが。

田中:その時におかげで、次々にいい作品が出来てきましたね。

K:「王孫不帰」は非常に難しい作品で歌う人も「こんな難しいの歌えない」と先生に言ったエピソードもあったそうですが。

田中:「王孫不帰」は確かに難しい。今、現存する日本の合唱曲の中で最も難しい作品の一つですね。難しいだけでなくて非常に優れた作品です。それは三善さんの人生のある一つのピークの時に出来た作品でした。三善さんの非常に充実した音楽活動の結果作品に昇華したわけですね。初演は非常に大変でした。みんな本当に一生懸命取り組んでくれましたが、始めて見るような譜面だし、歌い方が、あれは能の歌い方を模して歌うという作品でして、一生懸命やったけど初演は必ずしもいい演奏ができたわけではありませんでした。いい作品で、手応えを感じましたので何年聞か続けてやりましたね。何年か後やっと本当に素晴らしい演奏ができました。その間、ぐんぐんとアリオンの実力が上がっていきましたね。やはり優れた作品をやれば、取り組むことによって様々なことを学んで、演奏団体は成長していくわけでしょう。それが如実に表れた。最初に「何だこれ」と言った学生の意見は実に自然なことであり、決して活動に抵抗しようとして言ったのではなくて、そのようなことは何か新しいことをする時には必ず起こることであり、そのようなことが起こったアリオンは非常に健全であったと思います。

K:次に「シンポジウムー番、二番」が出来ました。

田中:1番に関しては図形楽譜で、ステージ上での動きがあるし、マスクをして歌うし、当時そのようなことに出くわしたことが無かったので、何故そんなことをやるのだろうと言いながらやったんだよね。やることによってただ立って歌ってハモるだけでない表現の仕方があるということを体験することができた。そもそも歌というのは譜面に書いてあることを歌うのではなくて、元々は自分で歌詞を即興的に作りながら日常生活の気持ちや社会現象を歌いこんだりしながら、周りの人に聴かせる一つのパフォーマンスのようなものであったわけですよね。それが今ではソロでも作曲家が書いた楽譜の通りをきちんと歌うということになってしまった。コーラスの元祖といわれるギリシャ悲劇のコロスは、一人ひとりが演じながら歌っていた。18、19世紀の西ヨーロッパで音楽が宗教や貴族たちの権威主義の象徴として活用されるようになって、演奏スタイルも正装して並んで歌う形式ばったものになったのです。それを打ち破った、本来音楽というものは並んでやるということだけではないのだということを教えてくれた作品でした。

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「SimposiumⅠ」を指揮 第25回定期演奏会
1975年12月6日

S:それは当時、社会が自由な方向に向いつつあったことに関係しているのでしょうか?

田中:1960年代からヨーロッパでも伝統的な音楽のあり方を壊していくという潮流ができたよね。そのようなことに影響されてますよね。だからあなたが言ったように社会状況によって音楽界も変わりつつあった。

S:原始に戻ろうという動きなのでしょうか?

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田中:そうではなくて、今までのあり方に対する反抗のようなものですね。今のあり方から抜け出して新しいことをやろうという動きですね。今までやってきたもの、そういうものだと思っていたことに対して疑問を投げ掛けてそうじゃないものを追求するのです。

K:そのような時代でしたから学生も抵抗は無かったのでしょうか?

田中:そう。みんな面白がってやっていましたね。演出での股の間からピストルを出して、終わるかなという時にバンと撃ったからお客が皆びっくりしていましたね。

K:最近は演奏されていませんが。

田中:それは時代が合わないなと感じるからです。その当時、色々な作品がありました。一柳慧さんの作品で(ミク・プロジェクトNo.31969年)東混の委嘱でしたが、40人全員が拍子木をもってテンテン・‥と永遠に叩き続ける。ときたま「アア、アア」と唱える。急に拍子木の音が止まり曲が終わる。ず-と鳴っていたものが無くなるから、その空間はまるで真空のようなんですよ。また一柳慧作曲のファゴットと男声合唱(ヴォイス・アクト 1973年)これはアリオンではやらなかったけど、それぞれが自由に面白いことを言い合ったり、立ち上がったり。それは若い人達が今の社会に対して抵抗をもっている。だから突拍子もない行動に出たりするわけじゃない。あなたたちでも、こんな学校しょうがないとか、こんな世の中しょうがない、こんな大人どもはしょうがないとか思う、それに抵抗をしたいと思うでしょう。そういう活動に似ているんだよね。音楽においても伝統的なものをそのままやるのではなくて、新しいものをつくるために、今までのあり方を壊す、壊すほど力を持ったものをつくるのが創造なんだよね。ヨーロッパにいい作品が沢山残っていますが、そのようなものもそうして出来てきたんだよね。例えばピカソの鼻が曲がった絵なんて誰が考えついたでしょうか。でもこのようなことをしなければ、あのような美学は地球上に存在し得なかった。誰かがやらなければならないのです。

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「萬歳流し」を指揮 第17回法関
1978年6月19日

K:1975年には「萬歳流し」(柴田南雄作曲)が生まれました。

田中:「萬歳流し」のいきさつは先生の著書「日本の音を聴く」に詳しく書いてあります。あれは柴田先生が「追分節考」で一つの新しい演奏のあり方に成功されて、その直後にお願いした作品でしたね。初演は六連でした。

K:演奏の仕方が今とは全然異なっていますよね。

田中:この作品は演奏の仕方がきちんと決まっているものではないから、やっているうちにどんどん変わっていますよね。現場に任されているから。書いた通りに指揮者に合わせて歌うということだけではつまらない。一人一人が独立した人間だからその人たちが自分の意志で音楽を展開していく、それの相互、全体が一つの作品だというものを探してこのようなものをつくられたと思う。手刀演の時はどうなるかと思ったら、びっくりしたことに、ある年配の方がおひねりを出したんですよ。そうしたら周りの人達がみんな面白がってどんどんおひねりを出し始めた。そこで演じる側と聴く側の交流が起こったんだよね。本当の演奏というものはそういうものなんだよね。この話は皆さんに話したことがあるかな?外山雄三さんのお母様が外山国彦さんという声楽家の奥さんですが、その方が聴きに来ていたわけ。それでその晩、外山雄三さんの所に電話をかけて「あんた、柴田南雄さんの〈萬歳流し〉という作品を知っているか」という話になったらしいんです。私が京都のホテルに泊っている時に突然、外山雄三さんが電話を掛けてきて「おまえ、昨日何をやったんだね」って聞かれて「おふくろが昨日六連聴きに行って、みんなつまらないことをやっていたけど、一つだけ素晴らしいことをやっている団体があった。アリオンだ」それを聞いて外山さんがびっくり仰天して何やったんだと電話してきた。

K:1976年に法関でその外山先生に編曲委嘱(黒人霊歌集)しました。

田中:それは外山さんはN響で「ラプソディー」という曲を書いた。日本民謡を素材にした大変に快的な作品でN響のヨーロッパ公演で大変うけたんですね。彼は作曲家でもあり彼にお願いして書いてもらったんですが、「黒人霊歌」が出たのは関大との合同でやるということで、その辺がいいかなと思って。黒人霊歌というものはいわゆるキリスト教の音楽とは違って黒人の生活の中からの祈りであって、民族的なものですよね。だから合い通じるところがあると思い題材に選んだわけです。でも実は日本人には黒人霊歌は歌えないけれどね。「萬歳流し」なんてヨーロッパの人には絶対歌えませんよね。

K:次に1977年には「五つのルフラン」(三善晃編曲)が出来ました。この作品の初演の時に先生は風邪をひいたとかで、当時の学生指揮者が演奏していますね。

田中:そうなんですよ。当時スケジュールがいっぱいで、その日起きたら熱が高くて、その日に伊藤君のところに電話をして彼に振ってもらった。よくやりましたね、伊藤君は。崇徳グリーのOBで、確か今は江田島の議員をやっているんだよね。その人のおかげで初演できたんだよね。

K:それと同じ年に混声曲を定演でやってます。「嫁ぐ娘に」(三善晃作曲)ですが。

田中:ああそうですか。どことやったのでしたっけ?

K:合唱団OMPの女声ですね。なぜ、男声合唱団が混声曲を取り上げたのでしょうか?

田中:それは男声合唱曲でいいものが少なくて、再演もしましたが、つまりいい作品がなかったことが一つ、またこの作品が混声ですが新しくていい曲でした。それはつまり歌とは何をその曲から学ぶことがことができる。題材も意味深いものでしたし、そのような体験を学生の皆さんにしてもらうことによって歌のありかたを学んでほしかった。

K:1978年に「修二合讃」の男声版が出来ました。その時の定期は柴田先生の作品だけでした。ちょうど20年前ですね。

田中:20年も前に柴田作品だけでできたということは凄いことだよね。

K:「三つの無伴奏合唱曲」は長い間演奏されていなかったのを当時の学生指揮者の方が、やりたいと言ってやられたそうですが。

田中:そう、そうですね。その演奏を聞いた柴田先生も、あの学生指揮者の青木君はよくやってくれたと大変、お喜びになったんです。あれは名曲ですよね。特に「秋」は。

K:次の年に「回風歌」(高橋悠治作曲)が出来ました。詩は木島始先生の書き下ろしでしたね。これは今までの委嘱作品とは全然異なるタイプのものだと思いますが。

田中:高橋さんは若い噴から独自の音楽活動をずっと続けられていて、是非書いていただきたいと思っていました。そして本当にいい曲ができましたね。今は男声合唱のレパートリーになって色々なh合唱団が取り上げています。それの特徴はやはり指揮者の命令のようなものから開放されていることと色々な種類の声を使うこと。人間は色々な声がある、それを組合わせて音楽をつくる。今までにない響きを求めているという特徴がある。それから詩が今の若い人達が歌うに相応しいものです。

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第30回定演打ち上げにて
(左から柴田先生、田中先生、木島先生、水野先生)
1980年12月1日

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K:木島先生の詰も当時の社会状況の上に立って書かれているのですが、今でも全く古くないんですよね。

田中:そうなんですよね。そして音楽もいつやっても新しい。

K:次の年に「萬歳流し」を定演でやった時に本場の横手から松井さんと最上さんがいらして一緒に演奏しました。

田中:そう。わぎわざ招いたのはお二人とも高齢で、是非、伝統的な萬歳の真の姿を学生諸君に生で見てもらいたかったからですね。そして一緒にやって学生たちにとっては非常に有意義な収穫でありましたし、それと同時にお二人とも非常に喜んでくれました。若い人たちがこんなに一生懸命にやってくれたといわれて。大変印象的な演奏でした。それからまもなく松井さんがお亡くなりになり、その伝統が絶えてしまったわけですが、最近これは柴田先生からお聞きしたのですが、横手で若い人達が復活させているらしいのです。それには、この作品が大きく寄与しているかも知れません。都会の学生がこんなにやっているんだからという事が本場に伝わったから。アリオンの皆さんは本場へ行って演奏もしましたよね。またアリオンに限らず様々な合唱団が各地でやっている。

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第30回定演 1980年12月1日

K:お話が少し飛んでしまいますが昨年の柴田先生の「人間について」の公演でも森先生と村本先生が非常に素晴らしい萬歳を聴かせていただきました。勿論、アリオンの方々も大変良かったと思いました。

田中:アリオンというのはあのような大きなステージに出ても平気で動いたり、歌ったりできるのは凄いことですよね。やはりこれは伝統ですよね。ちっとも見劣りしませんでした。それところが立派に役割を果してくれた。

K:次の年に「ふるさと」(三善晃作曲)と「わが出雲・はかた」(柴田南雄作曲)が出来ました。

田中:三善さんは「ルフラン」以来でしたね。確かその時は三善さんの作品だけの演奏会でしたね。「ふるさと」の初演の時も大変でした。音も高いし、こんなのできるかなあと思っていました。でもみんな良くやってくれた。おかげで次に「王子」を書いていただき、名曲である「縄文土偶」が生まれたわけですね。いつの頃でしたかね?団員がこんな活動してていいのかと正面きって言ってきたのは。数年間、そのような気配はありましたね。黙って辞めていった人もいましたし、実際に現実的にこのような活動にあいいれないといって辞めた人もいましたね。
 今から思えば、辞められた方は自分の意志で辞めたわけで、それはそれで立派であるし、アリオンにとってみれば、そのことで動揺して活動のあり方をゆるめなかったということも良かったと思いますよね。

K:今でもそのような方がいますよね。特に経験者の方は。

田中:それは誰にでも、どの合唱団でもある。人間とは様々な方向に向いていて、いろんな人がいる。合唱をやるのになんでそんなに苦しまないといけないんだという人もいました。でも私は思うに、音楽美を追求することの楽しみ。それが本当の楽しみであって、安易な娯楽とはちがうのです。アリオンという音楽団体はそれはアマチュアだし学生団体ですが、専門的なところまでいかないにしても同じ人間だから、そのような楽しみを体験できる筈だし、それを目的とするなら、これは非常に素晴らしい部活動だと思うわけです。だから意見が違って辞めていく人が出るのはごく自然なことですし、アリオンコールとは伝統的にそのような場であるのだというのをしっかりと受け継いでいくのが大事だと思うのです。

K:次の年に「芝生」(武満徹作曲)の世界初演がありました。これはどのようなきっかけで演奏することになったのですか?

田中:武満さんには是非アリオンに曲を書いてほしいとお願いしていたのですが、大変お忙しい方で書いてはいただけなかったのですが、たまたまその時、ハーバード大学のために書かれた曲があった。楽譜を送ったら指揮者から非常に長文の手紙が送られてきて、それを見せてくれた。「こんな手紙がきちゃったよ。」とおっしゃっただけなんだけど。そこに細かい字でここの部分はどうやって演奏したらいいのですか、など沢山書いてあった。譜面というのは全てが書いてある。それを演奏でどうするかというのは演奏家がやることであって、それをいちいち作曲家に全部聞くというのは主体性がないわけですね。と、そういう風にはおっしゃらなかったけれど、それから数日経って、これをアリオンでやらせていただけないでしょうかとお聞きしたら「いいです。」とお答えになった。楽譜は既に出版されていたんですよね。出版されたのはやっていいのだから。という経緯があって世界初漬したのです。

K:初演の時はかなり大変であったとお聞きしていますが。

田中:武満さんが定期のゲネプロを聴きにこられて、アリオンってうまいんだねと言って舞台に上がってきたんですよ。面目を保つことができましたね。アリオンが何の抵抗もなく演奏できたのは、それまで柴田さんや三善さんなどの新しい作品をやってきたから、新しい譜面に出会っても全然動じないでできたんですよね。だから曲によって団体は育てられるつまり演奏家は曲に教わる、だからどんどんいい曲をやらないといけない。

K:1984年には「カオス」(水野修孝作曲)が六連合同委嘱として先生の指揮で初演されました。定期では「九位によるコムポジション」(湯浅譲二作曲)が出来ました。

田中:六連で合同曲をやるということで、せっかく異なる六つの団体が集まるわけですから単独できるような曲をやるということはイージーで無意味だと思います。混声六連にしても男声六連にしても虹の会にしても、多人数に相応しい曲をやるべきだと、いつも考えています。最初に男声六連をやった時は確かシューマンの「モテット」をやりましたよね。あれはダブルコーラスでした。次に頼まれた時にやる曲が無かったので、それで書いてもらうしかなかったわけですね。なぜないかというと六連のような団体は東京と大阪にしかないわけでしょ。だからそのような団体に相応しい曲は世界中にない。そこで新しく書いていただいきたいと思い、その時に水野修孝さんにお願いしました。それがタイトルそのものの「カオス(混沌)」という曲であって本番は大力オスが繰り広げられました。だけど、そのようなあり方に対して各団のそれぞれの団体の人達は全体を認識することができずに、つまり自分が担当している意味についての「何故」に対しての認識ができずに必ずしも全員の賛同をえたわけではなかった。けれどその曲が軸になってのちに彼のオーケストラ曲ができた、彼のライフワークといっていい作品が出来ましたよね。

K:1992年に演奏された「交響的変容」ですよね。幕張メッセでした。

田中:その時は柴田先生にお願いしたんだけど忙しくてできなかったんですよ。だから柴田先生のお弟子さんだった水野先生に依頼しました。混声六連では「宇宙について」を関東大学合唱連盟では「自然について」を委嘱しました。やはりそのようにつくっていかないと。つくっていくことが大切なんです。

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K:次の年に「鎮魂歌」(一柳慧作曲)がありました。

田中:これもいい曲でしたよね。今では全国で演奏されてますね。これほど新しい譜面に出会ってきたアリオンでも、すごい新しい技法でとっつくのが大変で、初演の時は四苦八苦しましたね。でも大変な意味が、あの内容を表現するために必要であるから皆に納得されているわけですね。だから今日まで歌われているわけです。

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「路標のうた」を指揮 中嶋香先生と 第26回法関
1987年6月16日

K:次の年に「路標のうた」(三善晃作曲)と「三つの時刻」(三善晃作曲)の復刻版の初演がありました。

田中:「路標のうた」は法関の委嘱でしたよね。二つの異なる団体が出会う時に相応しい曲をお願いできないでしょうかと三善さんに頼みましたらあのような曲ができました。これもレパートリーとして全国で演奏されてますね。

K:「三つの時刻」は先生の家から初演の時のテープが出てきて、それを沼尻竜典先生が採譜されたと。

田中:「三つの時刻」はあれは早稲田の委嘱でしたね。初演してからピアノの譜面が紛失して世の中から忘れ去られてしまったわけですけど、それを是非、復活したいと、アリオンは、その復刻版をつくることに役立った。それにはテープからピアノパートを復刻して譜面を書いたわけです。沼尻竜典さんと小沢さちさんが携わってくれて見事に復活したわけ。最後には三善さんに仕上げていただいたわけですが。つまりいい曲というのはありさえすればやがて歌われるんですね。だからいい曲をつくらないといけない。例えば、かの「マタイ受難曲」だってそうでしょ。あれは復活するまで百年近くもたったのです。

K:次の年はちょうど先生の顧問指揮者30年で林光先生に委嘱して「夢の分け前」が出来ました。昨年、東北学院が再演してくれました。そして次の年に「追分節考」が定演で桐朋学園大学女声との共演で演奏され、そののち「宇宙について」「布瑠部由良由良」と3年間、柴田先生の混声シアターピースの演奏が続きました。

田中:それはそんなにつくってきてもまだ男声合唱曲が少ない。でも混声曲ではいい曲がありましたのでやりました。「追分節考」という素晴らしい作品を皆さんに体験していただきたいと思い、あれは男声が主軸で演奏される作品ですし女声にトレリンコと桐朋学園女声に是非演奏したいと願い実現できた。あの作品もそれぞれが自主的に歌う作品ですしアリオンも体験しないといけないと思いました。大変素晴らしい作品ですから東混だけでも千回以上演奏されていますね。その混声をやったら桐朋学園女声が大へん、興味をしめして、桐朋には男性が少なくて混声をやることが不可能で、その次の年も「宇宙について」の企画を出しましたら相互でやりたいということになった。「宇宙について」は合唱をする人は必ず通らないといけないと言えるぐらい大切な曲ですよね。柴田先生が学生のために演習という形で書かれた。演習というのはいろいろな音楽の有り方を体験する、つまり様々な音楽のスタイル、モテット、グレゴリオ聖歌、二部には無調の音楽が出てきて、それらの音にテキストの意味が反映している、つまり無調の音も内的必然性をもって歌えるように非常に優れた作品ですね。三部にはロマン派、四部はバロックの音楽、五部はおらしょにいたるわけですけど。おらしょというのは日本の伝統的なキリスト教の音楽であって、これがしかも幕府によって弾圧されてきた。弾圧されてきた人々の権力ヘの戦いの歴史の遺産である。ヨーロッパのグレゴリオ聖歌をそのまま歌っているにもかかわらず日本人の生活と体を通して定着していった独自の音楽に変わっている。その次の部分には世界中のキリスト教から発展してきた色々な宗教がある。いろんな民族も宗派も違うし、音楽も違う。人間というのは共通の人類だけれど、それぞれ異なる存在なんだよということが演奏を通して体験できる。そして最後の華巌教につながるわけですね。だからアリオンが男声にもかかわらずあの作品を演奏できたことは非常に貴重な体験だったと思います。

K:1990年には「冬のスケッチ」(高橋悠治作曲)が出来ました。

田中:あれは音符がなくて。高橋さんは昔から五線譜におたまじゃくしを書くことをしない人なんですね。新しい譜面の書き方を、自分の音楽のあり方を伝えるために一生懸命、考案なされてあのような譜面の書き方になった。あれはみんなとまどいましたね。その後にできた五線のない曲はいっばいあります。
それらを体験したあと、なるほどと納得します。また再演したいと思っています。

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「萬歳流し」を指揮 第41回定演
1991年11月21日

K:1992年には柴田先生と一柳先生に委嘱するにあたり委嘱支持会が組織されました。

田中:委嘱支持会の発足の時は学生の皆さんとかなり話し合いました。その構想は実はもっと前からありました。アリオンの人達がアルバイトをして費用を出すというのは限界があるし、だんだん人数が減ってきている、しかしこの委嘱活動を停滞するわけにはいきませんので、これは踏み切らないといけないと。もっと前から構想はあったのですが、なかなか学生がうんと言わなかった。それでその時にみんなと何度も話し合ってできたわけです。幸いあなたがたが懸命に取り組んで結論を出してくれたおかげで毎年素晴らしい作品を生出すことができていますね。

K:その時の柴田先生の委嘱「美女打見れば」は結果的には先生最後の男声作品になりました。

田中:人からお金を集めて曲を書いてもらうということに対して変だと思う人がいるなら、その方に言いたいのだけれど、例えばバッハなんかは教会が集めたお金で書いていた。それから宮廷に仕えていた作曲家は王候のお金で書いていたわけだよね。大事なことは、今は権力がお金を集めているのではなくて学生の人達が今歌いたい曲をつくりたいから応援して下さいとお願いし、そういうことなら応援しようと一人一人の愛好家の方々が自分の意志でこの活動に参加して下さることがすごく意義のあることなんですよね。

K:私は最近思うのですが応援している側はその活動は素晴らしいと思って協力しているのですが現役の人達はそこまでは判ってないなと思いますね。

田中:そう言ってやってくださいよ、後輩諸君に。私は折りにふれて話をしているわけですけど。

K:私もやっている時はあまり実感はなかったわけですけど。卒業して第三者的な立場に立ってなんてアリオンは凄いことをやっているところ何だなと判りました。

田中:そのところは是非、太字で書いて下さい。みんな言いますね。たまに会いますと、本当にアリオンって凄いことをやっているんですねって。

K:1994年になると今までの作曲家とは異なり若手の方々への委嘱活動が始まりました。藤家先生(十牛図)とか伊左治先生(fumeux fume)とか。

田中:優れた作曲家が年配の世代にいて、長年その方々に委嘱をお願いしましたが若い世代にもいい作曲家がいる。その人達にも書いていただきたいと思って。もう一つの密かな意志は年配の人達には早く書いていただかないといなくなっちゃう可能性がある。そのような意味で年配の方々に優先的にお願いしてきた。それはそれで良かったのですが、若い人達も台頭してきた。それで藤家さんや伊左治さん、そして今回の権代さんにお願いしたのです。


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K:1995年の伊左冶先生の作品は日本語ではなかったのですが、これの歌い方というのは?

田中:中世の世相のあり方を反映している。表ではなくて中世の歴史の中の陰の世界があり、あのような人がいたというのを認識できる。それには日本語で書いたら全然違うものになってしまうので古いフランス語を音楽の素材として用いた。それなりの意義がありました。ただ理解するのにちょっと時間がかかりますよね。

K:聴衆の方はやはり何を歌っているのか判らないので感じるところが少ないと思いますが。

田中:それは、言葉が伝われば音楽が伝わるというのではなくて、あの煙草の煙がモヤモヤしているような音楽、あれは一体なんだ?と思うこと、その昔から思うことでその作品に接近していく、そのような音の現象に捕らえられるということはとても大切なことですね。例えばベートーベンの第九を聴いた時に物凄いなと思って何かにうたれた、ドイツ語の意味を全く知らなくても、あの作品は何だ、あの作品の偉大さは何だと素晴らしさはなんだと感動を受けた時、それから始めて意味にせまっていく。その時テキストを読んでみる。そうかこれならあの音でないといけないと思い直す。このような音楽への迫り方があっていいと思います。しかし第九を意味も判らず凄かったとすましているままでは駄目なんですね。「フロイデシヘネル」というようなありかたはまるで論外ですね。

K:権代先生の作品も外国語とお聞きしましたが、ここ2年間、外国語が続いていることに対しては?

田中:まず、私が作曲家に委嘱をお願いする時に「今本当に書きたいこと」を書いてほしいとお願いします。今、書きたいものを書けばいいものができるに決まっているわけです。で今の世代の若い人達が外国語を使うというのは今の時代がそのような時代だからだと思います。それを私は否定するつもりはないし、共に演奏する方もこのような時代を考えて演奏活動をしなくてはならないと思います。権代さんの作品がどのようになるか判りませんが彼はクリスチャンであるから、今までの作品もキリスト教の精神に根ざしたもので、ラテン語の作品など色々ありましたね。

K:今後はどのような活動をアリオンで展開なさるつもりですか?

田中:そのような若い作曲家の目指す方向にも当然協調していくだろうし、いずれにしても総合的に言うと今、共に生きている、一緒に活動している創作家たち、詩人や作曲家、その人通が目指しているものに対して、演奏をもって協調していきたい。そのような姿勢は変わらない。多くの創作家たちのそれぞれの立場でできた作品、そしてそれが優れているということが、そう、優れた作品ができていくことが大事なんです。だから私は決して日本民謡に根ざしているものだけを求めているのではない。また、日本語の歌詞の曲を求めているわけでもないのです。日本語が音楽に姿を変えたもの、日本人の美意識が音楽に昇華したものが欲しいのです。柴田先生は元々日本のものに根ざしているものを考えていたわけでないですよね。例えば「追分節考」にしてもそうです。あの作品は日本民謡の頂点だなんて言われていますが、柴田先生はそんなこと少しも思ってないですよね。あれは元々モンゴルの人々、願馬民族の人達が伝えたものですよね。モンゴルの人が「追分」を聴いた時「これ、うちにあります」って言ったそうです。モンゴル、騎馬民族の血が日本にも流れているわけで、フビライが攻めてきたように彼らとは身近な存在なんですよね。ということは、モンゴルから繋がっているということは、ユーラシア大陸から繋がっているわけですよね。二月堂のお面なんかは日本のものではありませんよね。向こうから明らかに伝わってきたものですよね。だから柴田先生の場合は日本のものというものではなくて、作曲に相応しい素材を地球上から求めているわけですよね。たまたまそのような素材に行きあったということですよね。それが私がお掛1した「日本民謡の形を壊さないで、節回しやバイタリティーを壊さないで作品にしてほしい」という考えに一部合致したことだったと思います。

T:ただ現役団員の中では近頃委嘱曲はこれまでの方針とは違うのではないか、日本の歌を歌って作っていくという方向性からずれてきているのではないか、やはり日本の歌を歌いたいという意見がでています。例えば伊左治先生の作品は中世フランス語でしかも音譜が長くてフランス語には聞こえない。だからやはり日本語で歌いたいというような。
田中:逆になってきましたよね。

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六連合同ゲネプロにて 第42回六連
1993年5月1日

K:そうですよね。最初の頃はヨーロッパの音楽をやりたいと言っていました。

田中:ただ私が言ったように創作の方針とはまず作曲家の主体性を尊重する、そしてできるだけ学生の意志を反映できればと思っています。その反映させる方法はいつも委嘱をする時に、私が頼むのではなくて、私が口をきくけど、学生指揮者や責任者がその作曲家に直接会ってお願いしていますね。その時にいくらでも反映させていいわけ。大阪のローレル・エコーという合唱団があるのだけれど、今までに沢山の素晴らしい作品を作っているのですが、あそこの責任者が作曲家に会う時に「もう難しいのはあきませんわ」と言うそうですよ。「譜面が難しいのはかなわんですよ」って。それで徹底的に作曲家を洗脳?するそうですよ。にもかかわらず出来てきたものはそんなに易しいものではなくて、例えば三善さんの場合は(五つの願い1988年)初演の時は難しくて歌えず、アカペラなのにピアノと一緒に歌って、やっと音にしたというようなことがあったり、高橋悠治さんの場合は(かがみくもりて一梁塵秘抄より-1994年)全然音符がない曲ができてしまって、けれどそれをやることによってどんどん上手くなっていきましたよね。だから創作家の方はいくらそんなことを言われても書きたいものは書いてしまうわけで、でそれは頼む側の意志を無視しているというのではなくて、よし、そのような団体ならば、その団体が喜んで歌えるのは何かなということをよく考えてくれるから、その団体に相応しい曲が出来てくるわけですよね。三善さんの曲を去年再演した時はもう今年はピアノはいりませんよと、得意になるぐらい上達していました。今一番魅力的な活動をしている合唱団ですよね。だからアリオンも頼む時にはそのような委嘱の仕方をすればいいわけですよね。

K:アリオンが委嘱活動を続けていけば男声合唱界は変わるでしょうか?

田中:変わるかどうか判らないけど、いい作品は残っていくでしょうね。何曲か、何十曲か。そのことに意味がある。もしその作品が無かったら永久になにも起こらない。だけどいい曲ができてきて、あちこちの団体が歌っていくと、歌っていくことによって作品からいろいろなことを学んで、あなたたちが変化したような同じ変化がきっと起こる。いくらいい曲ができてもそれに関心を持たないといけない。それでも変わらないというのならばそれは、その時代の実態であって、それはそれでいいのではないでしょうか。やがて百年も経った頃に昔はこんないい曲があるじゃないと発掘されるかもしれない。出来たばかりの作品がその時代にやんやと、もて嚇されるということこそ眉唾かもしれない。

K:今回は本当に貴重なお話をお聴きすることができて大変有意義でした。まだお聴きしたいことが沢山ありますが、是非、先生には本を書いていただきたいと思っております。今後ともアリオンのみならず素晴らしい合唱創作活動をして頂きたいと思っております。本日はありがとうございました。

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