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アリオン100.jpg法政大学アリオンコール HISTORY

特別寄稿 港屋物語

~序 章~
 1972年3月の春合宿…新潟県越後須原の「港屋」とアリオンコールの永いお付き合いは、26年前のこの時に始まった。前年の裏磐梯春合宿で、一日スキーのレクリエーションを行なったのが好評で、またスキーの出来る所で合宿したいとの要望が多かったので、田中先生のスキーの定宿であった「港屋」さんをご紹介頂いたのが、きっかけだったと記憶している。
 同期の和田君と私は、スキーがしたくて合宿に行ったようなもので、二人で相談して練習日程を変更し、確か半日か一日余分にスキーの時間を増やしたのだが、(指揮者としてあるまじき行為だが…)こんな事をした天罰か、私は膝を捻挫した。
 この合宿はエピソードには事欠かない思い出深いものであった。私達、新四年生は就職活動中で参加できないメンバーが多く、トップの片岡君・和田君、バリトンの安藤君・佐藤君そして私の五人だけが参加していた。就寝前のホッとするひととき、我が同期で最も真面目な安藤君の衝撃の体験談が佳境に入ったその時、突然、新二年生十六人による計画的襲撃を受け、常々圧倒的な力関係で押さえつけていた彼等に、多勢に無勢とは言え徹底的に打ちのめされた。特に和田君は体が小さい分標的にされ、彼等の部屋に拉致された。この騒ぎを聞き付けて駆けつけた新責任者で村長の熊谷君に、全員寒い廊下で正座させられたので抗議をしたが、「喧嘩両成敗です」と取り合わず「反省が足りない」と逆に怒られながら、頼もしい責任者ぶりが妙に嬉しかったです。
 さて、ご存知のように新潟県は米どころ。ごはんが美味しいのは何よりで、ついつい食べ過ぎて苦しいおもいをするのだが、懲りないのか食い意地が張っているのか。

…?地元の方が餅を搗いてくれた時、競って15個も餅を食って動けなくなった馬鹿がいたっけ。…!!

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春合宿では六連に向けて新曲の練習が主体なので、必然的にパート練習に多くの時間を割く事になり、指揮者の私は港屋さんのおばあちゃんを相手に玄関脇の囲炉裏端(矩燵だったかナ?)で、お茶と漬物をごちそうになりながら話込んでいました。そんな事が出来る家庭的な雰囲気が「港屋」にはあったのですね。大学卒業後も数回スキーに出かけた際、お世話になりましたが20年以上ご無沙汰してしまっています。あの頃とは随分変わったでしょうが、アリオンとのお付き合いは変わらずに続いて欲しいと思っています。             

茂手木裕二(昭和47年度卒)

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 アリオンコールの面々は田中先生の奨めで、「港屋」へ合宿をするためにやって来るようになった。合宿では厳しい練習も行われるが、それよりもスキーや合宿祭での思い出の方が強い人が多いのではないだろうか。
 午後にスキーをする時間を組み入れていた事もあった。田中先生はスキーが上手で、しかも丈夫であり、皆がスキーでフラフラになっていても、一人元気に指揮棒を振っていたという。
 また、合宿祭では各々大いに飲み、電線音頭などで大いに盛り上がった後、あちらこちらの窓から越後の雪の上へ飛び下りていき、時には裸で飛び下りる者もいた。
もちろん、雪は何メートルも積もっているので、寒くても、これで怪我する事は無い。この大胆な行動は現在に至るまで続いている。「港屋」の方の話では、折良く(折悪く)合宿まで指導に来ていた、ヴォイストレーナーの森先生や水野先生も投げ落とされた事がある、という。
 このような事を毎年やっている内に、オルガンはピアノに変わり、服を脱ぎちらかした田中先生を叱りつけた3才の港屋の息子さんも、30才を幾つも越え、「港屋」合宿は立派な伝統となった。
 この、26年もの良き伝統は、これからも受け継がれていくことだろう。

              杉野芳雄(平成11年卒)

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特別寄稿 港屋物語(平成28年版) 昭和59年卒 菅野文雄

33年ぶりの港屋

 平成28年8月、33年ぶりに同期会として港屋を訪れました。33年前の昭和58年3月春合宿では、これから改装するということで、何をしてもいいと言われてたので、この頃、大きな改装したようです。外観はずいぶん変わり,昔の面影はありませんが、室内には入りますと昔の名残が見受けられました。

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 相変わらずの豪雪地帯なので、1階部分は駐車場と倉庫になっており、玄関は階段を上って2階部分から入るようになっています。昔は屋根の雪かきをしたそうですが、今はどこも熱で屋根の雪を溶かすシステムを導入して、自動に雪を溶かして落とすようになっているそうです。便利ではありますが、設備投資(1,000万円程度)と年間の燃料費がバカにならないそうです。

 合宿中の練習で使用した大広間です。これは昔のままです。てっきり寸劇大会のための舞台があるものと思っていましたが、他の合宿場と勘違いしていたようです。

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平成28年
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昭和58年

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 先生方を始め、団員を雪中に落としたのが左手の窓です。右はその窓からの見た外の景色です。雪がないとイメージがわきません。正面の通りを右に回って玄関に向かったようです。
 右の写真は,昭和58年3月の雪の状況です。右後方に見えるのは港屋の母屋です。

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 玄関入って正面にあるリビングです。昔なら、こたつがあって雪で冷たくなった足を温めたのですがその面影はありません。前述にもあるボイストレーナーの森先生のことは、おかみさんもよく覚えてられました。年代は不明ですが、先生の指導も終わり、帰り支度をしたにもかかわらず、そのまま2階から放り投げられ、こたつで靴下を乾かしてから帰って行ったそうです。
 ピアノがありますが、これについては、
「ずっとオルガンがあって、合宿で使っていたのだけど、あなたたちが音が良くないのでピアノを買ってほしいというからすぐに買った。」
「ここにおいてあるピアノを、合宿になるとみんなで担いで大広間まで運んで練習していた。」
とおかみさんから説明を受けました。リビングから大広間まで、かなりの上り階段です。当時の1年生ががんばったのでしょう。それはともかく、わざわざおかみさんにピアノを買わせた代があるようです。少なくとも、我々の代は知らないので平成の代と思われます。その代は少しは責任を感じて、港屋で同期会を開催すべきでしょう。
名乗り出ることを期待します。

現在の港屋

 従来は、スキー客中心の経営でしたが、近年のスキー人口の減少、スキー(ボード)客の変化(みんなで車で来て日帰り又は、車中泊、コンビニ食をするので宿屋や食堂は使用しない)に伴い、かつて「かき入れ時」であった冬場は、暇になっているとのことです。
 我がアリオンコールも、平成14年の春合宿を最後に、港屋での合宿を行っていません。昨今の学生は経済的な理由から遠方での長期間の合宿を嫌う傾向にあるそうです。
 そのように世間が大きく変わっていく中、現在は、9月中に行われる都内の中学校からの団体の受け入れが一番忙しい時期だそうです。都内の中学校32校が、毎年9月に数日間滞在し、野外体験等の学習をして帰るそうです。昔の林間学校ですね、都会から離れて自然に親しむ機会は、学生に大変好評だそうです。今時の子供を相手に、おかみさんは口うるさく言っているそうです。
 現在の経営は、すでに数年前に旦那さんが亡くなったので、おかみさんと二男(?)の2人で行っています。
前述のエピソードでも出る田中先生を叱りつけた当時3歳児だった長男は、昭和58年ころ、法政大学工学部に進学しています。幸いなこと(?)にアリオンコールには入団しませんでしたが、現在は県内の市役所で勤務しているそうです。当時は、入学式にだんなさんが、卒業式におかみさんがそれぞれ上京し、アリオンコールに顔を出してくれました。

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左の写真は、港屋のおかみさんと息子、右は昭和58年当時の今は亡きご主人と一緒です。

港屋周辺

 現役当時、合宿で2回訪れたものの、一番雪深い時期であり、合宿のスケジュールが厳しかったことから、港屋周辺について何も知らずに帰ってきていました。そこで33年ぶりに訪れたのを機会に改めて周辺の状況について調べてきました。

須原スキー場

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 港屋から歩いてすぐのところにあるのが、須原スキー場である。夏場なのでもちろん、人気はないが、リフト乗り場の看板を見ると、大小4つのリフトと8つのコースがありました。昭和58年当時は、これほどの設備はありませんでしたので、おそらく平成初期のバブル期、原田知世の歌の勢いに乗って拡張したものと思われます。

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 上の写真は,昭和58年当時のスキーです。よく見るとまだこの頃はストッパーはなく、紐で板と靴をつないでいました。

玉川酒造越後ゆきくら館

 スキー場のすぐ隣にある酒造で、工場見学と日本酒の試飲もできます。

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 名前にあるように「雪倉(写真右)」が屋外にあります。天然の雪を使用した倉は常時2~3度に保たれているそうです。雪は10月頃まで解けないで残っているそうです。訪問した真夏の8月でもしっかりと残っていました。
 工場見学もしましたが、日本酒の製造は9月以降とのことで、8月では作業はしていませんでした。売店では多くの種類の日本酒が売られていましたので、日本酒好きにはお勧めです。

目黒邸(重要文化財)

 須原スキー場の入口にあるのが、「目黒邸」です。1797年に建てられた豪農住宅です。昭和30年代まで普通に目黒さんが住んでいたらしい。

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 建物の大きさも敷地の広さも立派なのですが、現役当時、スキー場に行くに当たり見えるはずなのに全く覚えていません。

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おそらく写真のように雪で埋まっていてわからなかったのでしょうか?
 この目黒邸の居住者である目黒家は,明治、大正と2代にわたって帝国議会衆議院議員を務めています。大正7年には新潟県で初めて車を購入し、「新2号」のナンバーをつけていたそうです。
 ここで何で初めて車を購入したのに「新(新潟)2号」なのかとの疑問があります。これには港屋さんも絡んでくる話です。以下はおかみさんからの話です。

 「目黒氏が議員であった当時、東京の国会まで通うために車を購入することになった。早速、新潟県で初めて購入し、登録しようとしたところ、新潟県知事の公用車を購入する予定なので、それを「1号」としたいので、「2号」にしてほしいと言われ、その結果、購入は最初であったが,登録の番号が「2号」になった。」
 「車は買ったものの、当時誰も運転免許を持っておらず,運転者がいなかった。そこで旧知であった祖父に声を掛け、運転手となることを依頼し、引き受けた祖父は浜松(静岡県)まで行って運転免許証を取得して専属の運転手となった。」
 「当時、祖父jは小出に住んでいたが、運転手が近くにいないと不都合だということで、自宅近くの今の場所に土地を買って家を建てて移り住んだ。当時土地建物両方でで800円だったらしい。」
 「その後、町の発展に伴い、町内に宿泊施設がないことが不便になり、宿をやってみないかという話があったので、町内で最初に旅館業を始めた。それが今の港屋です。」

 大まかであるが、この目黒家と港屋との深い歴史と関係が明らかになったのである。

蛇足その1

 港屋のおかみさんの話では、ここ魚沼地区は昔から豪雪地帯で知られていますが、世界中で人が生活している地区の中でもっとも豪雪の地域だそうです。降雪はシベリヤとかアラスカとか他にも多くあるそうですが、実際に人が住んでいて生活しているところは,魚沼地区が一番だそうです。
 これを蛇足に入れたのは、この情報のウラがとれませんでした。あくまでおかみさん情報なので、現在、真偽を確認中です。

蛇足その2

 アリオンコールが港屋を合宿地としたのは、昭和48年(1973)3月から。スキーで港屋を常用していた田中先生の勧めから始まったそうです。当時のいきさつについてはおかみさんから聞きましたが、話の一部についての情報を現在、確認中ですので、詳細確認とれ次第、お知らせいたします。

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1983年春合宿

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1983年春合宿