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アリオン100.jpg法政大学アリオンコール HISTORY

「六連の思い出」

「歌うことの意味を考える」

               東景六大学合唱連盟顧問
          音楽評論論家   辻  荘 一

 音楽,特に歌のおこりについて考えておくことは必らずしも無用ではあるまい。と言うのは現世紀になってから,文化は些末とさえ言いたいような分野にわかれ,その分野にだけみずからを閉じこめ,他の分野に対して全く理解を示し得ないと言う危険が日に日に強くなり,ひいては人は互いに疎外しあい,みずからを孤独の牢獄にとじこめている。この危険からまぬがれるためには,文化の諸分野の因って来るところを把握し,一見全く別種であるように見える文化の分野は,同じ起源を持っていることを知っておくことが必要である。おなじく歌と言われているものにも多数のおもむきをことにするものがあり,そのひとつのなかにみずからを閉じこめると,他のものは全く理解できず,往々敵視するにいたる。いわゆるクラシック音楽を愛する人はフォークやソウルなどをかえり見ないばかりか,これらを憎むべき存在とすら考えるのが通例である。このような相互間の無理解は断じて望ましいことではない。ひとたびかえり見てこれらの音楽の諸分野が同一の生活の要求からうまれ,派生したことを知るならば,この危険はかなりの程度に緩和されると思う。
 だれも今あるような音楽が原始人のあいだにあったとは考えていない。
しかし原始人のあいだに音楽がなかったと言い切ることもできない。それでは音楽の原始状態はどのようなものであったろうか。原始人が天災や強力な動物などからみずからを守るためには,武器を作ることも大切だが,それにもまさって大切なのは,おたがいに団結して,敵害を防ぐことであったろう。人間が団結するならばその力は大きいものになる。この団結をもたらすのには相互のコミュニケーションが完全に行われなければならぬ。
 完全なコミュニケーションは事態を伝達するに止まらず,その事態が人にもたらす感情を含まねばならない。その事態が好ましいか,恐るべきかがことがらの伝達をうらうちしていなければならない。それゆえ事態を伝達する言葉は感情をも同時に伝達しなければならない。この伝達は言葉の調子によってはたされる。すなわち発音の強弱,高低の変化で伝えられる伝達の内容が,その伝達の主体の感情状態をあらわし,同時に伝達を受ける側にも,同様の感情状態をおこさせるのである。この言葉にともなう強弱,高低の変化は,はじめのうちは生理的な自然発生の産物であるが,ある程度文化が発達すると,その変化のかたちが固定され,社会的なものになる。





 特に集団労働,宗教行事は言語にともなう音の高低,強弱の変化,言わば言語旋律ともいうべきものを,音楽旋律にかえる助けになり,労働と宗教とが音楽を産出し,これを保持し,次の時代に伝える容器となり,音楽,旋律の伝達性はますます強化される。
 一方,人間は自分で自由になるものを,おもちゃにしたがる性質を持っている。それで一部の研究者は遊びが文化の発展の原動力であるとすら言っている。それで今記したようにして固定した音楽旋律をおもちゃにし,またそのもてあそびかたの巧妙さを誇りとするようになる。ここに演奏が文化価値を持つことになる。このようにしてはじめは生活のためであったコミュニケーションとして言語旋律,ひいては音楽旋律は,それ自身としてコミュニケーションでありながら,遊びともからみ合うことになる。
 慧眼な読者はすでに上に記したことによって,歌うこと,それをきくことの心的基礎がここにあることを悟ったであろう。われわれが声をそろえて歌うのは,うたわれる言葉の意味を概念としてのみならず,それをうらうちする感情をも他者に伝達し,他者の同意を得ることである。各大学がその学歌をうたうのは,他者に歌う人が,その属する大学の存立の意義をみずから改めて噛みしめると同時に,他の大学の同意を求めることであり,しかもこれが楽しくなされるのである。みずからたのしみ,他者をたのしませながら,みずから誇りとし,理想とするところを,そのたびごとに心に彫りつけるのである。これほど生き甲斐を感じさせる行為はほかには無いであろう。
 大学歌はそれとして,その他の芸術的歌曲をうたうのも,同じ心的基礎に立っている,そこでは歌の遊びの要素がいちじるしくあらわれる。しかし聴く人の同意を求めたいとのコミュニケーション的要素もあらわれている。このような基礎的考察に立つならば,いろいろの種類の音楽,歌がそれぞれ上に記した伝達と遊びとのどちらかを重要視したり,軽視したしているのであって,全てちがったものでないことも理解されることと信じる。



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東京大学音楽部コール・アカデミー常任指揮者
                  前田幸市郎

 30回目の演奏会の開催おめでとう。
 いつも生き生きとした音楽を愛する若者と向かい合っているせいか,私自身時の流れに無頓着で,第30回の演奏会の記念に何か書いて下さいと頼まれたとき,もうそんなにたったのかというのが私の率直な心境でした。考えてみると,コール・アカデミーを振るようになって30年近くになりますから,知らないうちに人生の大半を六連とともに歩んだことになってしまったわけです。
 六連の各大学をみていつも感心するのは,新陳代謝の激しい学生の団体でありながら,先輩方の築き上げた伝統をよく守っているということです。
年を追っての技術面の向上もさることながら,独自のカラーを保っているというのは昔から知る者にとっては何とも嬉しいことだと思います。そしてそういった学生たちの音楽に対するひたむきな姿のなかに,我々も思いを新たにすべき点が多くあるようです。



一体,打ち上げ花火のように一見派手ではあるけれども,過ぎ去ってしまえばもうそれでおしまいというような,現代の我々の陥りやすい風潮のなかにあって,ひとつの事が30年間も絶えることなく受け継がれてきたというのは何と素晴らしいことではありませんか。この30年の歴史を振り返るとき,私はそこに与ってきた多くの人々の力の存在を感得せざるをえません。
 学生を相手にしていると,つい自分まで年をとらないような気分になってしまう私ですが,今後とも微力ながら六連の発展に貢献できればと考え
る次第です。


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「ある反省」

                明治大学グリークラブ常任指揮者
                   外山 浩爾

15年位前の男声合唱は,人数がやたら多くて,ハーモニーとヴォリュームで圧倒するような演奏が盛んであったように覚えている。でも,東京六大学合唱連盟の演奏会だけは,それぞれの特色をもった,完成度の高いものであった。当然のことながら,ゲネプロともなれば,各大学とも人変な練習を重ねて,唸りをあげて会場に集ってきた。その頃の当方は,至ってのんびりと演奏曲も未完成の部分があるし,全部続けて唱える自信もなくゲネプロに行ったことがある。明治グリーの出番になると,グリーメンが私の腑甲斐無さから,変な劣等感を持つと困るので一計を案じた。先ずステージ上に整列しても,並び方を「ああでもない」「もっとこっちの方へと充分に時間をかける。次に学生のステージマネージャーにむかって大きな声で「曲は最後の曲から逆にやりますよ」と断わり,「タイムは通常00分,遅くとも00分」と予測で伝える。そして数ある曲の初めの部分と,終りの部分を小手調べ程度に音を出し,繰り返しなどみんなカットで,専らポロ穏しをする。持ち時間は決っているから,ステージマネージャーの「時間ですから」の声に,もっとやりたい仕草でステージからおりる。






合同の練習もそこそこに再び自分達の練習場にとんで帰り,出来ない所の猛練習。しかし唱い込んでいく程に時間が延びて,本番ではステージ上に30分近くねばったことがあった。今,こうして思い出しても赤面の至りであるのに,当時の自分自身は強引で他を顧みることなしで,無茶苦茶を平気でよくやれたものだと思う。当時の東京六連の役員の人達のこの無礼な我儘を許して,何とか演奏させてくれた寛大さには,いつまでも頭を下げたままである。お断りしますが;これはむかしむかしのゲネプロの一頁だけであって,この教訓は,事後直ちに修正されて,現今は他の五大学の皆様にご迷惑をかけないですんでいるし,断じてしてはいけないことだと思う。六連のことばを耳にすると,あの時の反省が心をよぎるし,申し訳なく思うのである。

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                  立教大学グリークラブ部長
                 皆川 達夫

 東京六大学合唱連盟定期演奏会も,今年で30回を迎えることになりました。はじめからこの催しに関係をもってきた者として,時の流れのはやさに今さらながら驚くとともに,この30回の歩みのひとつひとつを思い出してかみしめております。
 今や日本のアマチュア合唱の水準はどこに出しても恥かしくないまでに向上してきましたが,この動きのリードをとってきたのは常に大学合唱であり,そしてこの六連でありました。この意味で,日本の合唱運動の基礎を30回にわたって積み上げてきたという,いささかの自負の念も抑えることは出来ません。
 わたくしは最近,日本の合唱を国際的に輸出することが必要であると感じるようになっております。もちろん経済や産業面での輸出も大切でありますが,これだけではやがて行きづまってしまいます。もっと大切なのは文化の輸出であり,芸術の輸出です。



 この六連の演奏をヨーロッパやアメリカに持っていっても立派に通用いたします。
 あと5年か10年後には六連をベルリンとかロンドンとかニューヨークで開催することも大いに考えられてよいでしょう。
 これによって日本が改めて再評価され,今までのゆえない誤解も解消されてゆくことになりましょう。
 軍事力は他人をおそれさせ,経済力は他人の反発を招きやすいものですが,芸術や文化だけは他人の心をやわらげ,人と人との心を結びつける働きをいたします。
 ここまで充実してきた六連の実力を国際的なものとするためにも,このことは真剣に考えられてよい時期にいたっているように思われます。
 六連30回のよろこびを感じるとともに,今後の一層の向上と発展を祈ってやみません。

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         法政大学アリオンコール顧問指揮者
             田中 信昭

 合唱は,まず一人々々が自分の歌をうたうことから始まる。自分を極めたうたでないと他の人の共感を得ることは難しい。



 極めた者同志が出合う時,そこに,ほかでは得られない興がおこる。
 輿に即して遊ぶことが出来たら,それこそアンサンブルの醍醐味であろう。

「大連の思い出、そして、これから・…‥」

                    早稲田大学グリークラブ指揮者
                   福永 陽一郎

 東京六大学合唱連盟の第1回の演奏会は,記録によると,1952年6月9日に日比谷公会堂でおこなわれた,ということになっている。しかし,私の記憶の隅では,「束京六連」のはじまりは,駿河台下の明治大学の大講堂での集りが,強く印象に残っている。あれが第1回演奏会でないとすると,連盟の発会式か何かだったのだろうか。明大の大講堂に集った連中の中にまじって,さわいでいた自分の記憶があって,それが「束京六連」のはじまりに違いない,という気がするのである。
 当時,私は26歳の駆け出しの指揮者。まだどの大学の合唱団も指揮をしていなかったが,東京では,慶應のワグネル男声合唱団の主だった連中と,ごくごく親しくしていた。数字が示すように「東京六連」は,「東西四連」と同年に発足した。その間の事情はくわしく承知しているが,ここでは述べているスペースが無い。
 「東京六連」に初めて出演したのは,1963年の第12回演奏会で合同合唱の指揮をしたときである。「東西四連」の合同合唱を指揮した最初が1953年だつたのだから,「東京六連」との直接の関係は,ずいぶん遅れたことになる。
もっとも,その間,ずっと六連の演奏会を聞かなかった,ということではない。





プログラムは,一回も欠けずに手元に保存されている。「東京六連」のプログラムでは,私の名は,主として,畑中良輔氏指揮の慶應ワグネルの曲目の編曲者として,しばしば記載されていた。
 1975年に早稲田のグリークラブを指揮して出たのが,最初で,いまでは,「東京六連」での私は,早大グリーの指揮者であることが多い。30年間の変化と進歩,そのはたしてきた役目について考えると,「東京六連」は,日本合唱史の中で,大きなスペースを占めるべき,歴史の実証者として存在してきたことがわかる。そして今日,一堂に合している指揮者の陣容を一目見れば,この「東京六連」が,日本の合唱音楽界そのものの結集であることは瞭然とするであろう。
 有名指揮者が一堂に会していること自体は,あまり意味のあることではか-かも知れぬ。しかし,それだけの人物が,それぞれに,強い魅力を感じる合唱団の集合体であることはまぎれもない事実で,その実体を見失わず,誇りを持ち自覚に燃えて,今後共,永劫にこの立派な30年の歴史を延長してほしいものである。

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          慶應義塾大学ワグネル・ソサイエティー男声合唱団
              専任指揮者 畑中 良輔

 今年が「六連30周年」記念の年なので,ちょうど30年前,ということになる。「ブル先生,ロクレンが始まるから行かない?」と,福永陽一郎氏に誘われた。「ロクレン?」
 朋いたこともない言葉で,瞬間,その意味を私はつかみそこねた。「ロクレンつて,六大学のグリーが連盟をこさえて,これから年1回の発表会をやることなの」と言われても,まだピンと釆ないニブさである。「なんで陽チャンそんなにコーフンしているのかなァ」ぐらいで,そのころ,それほど学生合唱に興味を持たなかったせいか,「まァ,陽チャンがあれほどカッカしてるんだから行ってみるか」と,駿河台はニコライ堂を下ったところ,明大の講堂に出かけた。
 いやまァ,その人の多さと混稚におどろいた。遠くでコーラスがきこえて来るが,何しろ入ることも進むことも出来ない。ついに陽チャンとはぐれてしまって,「いやァ,ロクレンつておそろしいとこや」。
 それが10年後,そのおそろしいロクレンのステージに立つことになろうとは。昭和35年6月4・5日,「六連第9回定期演奏会」から,以後毎年,現在に至るまで,ロクレンの定期に臨んでいる。



その間,2回だけ欠演した。1回はヨ一口ッパへ行っていたあいだ。もうひとつは“ギックリ腰?“とやらで,客席の方からの出席である。北村協一氏に何れも代演を御願いした。
 毎年4月,どの大学も同じようなフレッシュメンを迎える。その音楽的資質が各校によって異るとは思えない。しかし六連を聴いていると,各校の音楽に対する個性と言うか,アプローチの方法と言おうか,それぞれの団体がそれぞれの音楽をきかせてくれる。それは伝統の力もあるだろう。
指揮者の考え方,嗜好性による部分も大きいだろう。とにかくこの定期演奏会では,私は自分が指揮する以上に,他校のグリーがきかせてくれるや”音楽“がおもしろい。と同時に,自分の勉強になっている。グリーのメンバーも,自分達が歌うことだけでこの会を成立させるのではなく,お互いに聴き合い,その演奏について”考える“ことによって<六連> を意義あらしめるような会にできれば---と思っている。


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