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アリオン100.jpg法政大学アリオンコール HISTORY

「30年を顧みて」~六連マネOBによる座談会(昭和55年11月3日/新宿「穂高」)

02.gif 連盟結成30周年に何かふさわしい企画をと,六連マネー同,ない知恵をしぼり思案をこらした結果,各校マネージャーOBによる座談会ということに落ち着きました。今回は特に創立期のOB中心に集まって頂きましたが,何しろ30年も前のことですから,どんな話になるやら,またそもそも話がうまく進行するかどうか心配でした。しかし,そこはさすがにOBだけあって,30年若返ったような感じで大いに語って頂けました。

 本日はお忙しいなかお集まり頂き有り難うございました。来年(昭和56年)で東京六大学合唱連盟もいよいよ30周年を迎えることになります。本日はこの30年の流れを振り返りつつ,特に連盟発足当時のことを中心として話を進めて頂ければと思います。まず連盟の発足の契機とかの経緯などをお伺いしたいと思います。

K:そうですね,六大学で合唱連盟をつくろうという動きは私達以前にもあったと思います。当時,我々以外にも大学の合唱団はいくつもありましたが,あくまで野球の六大学でつくるというのが建前でした。もっとも,今と当時では六大学の存在価値も随分違いますねとにかく実際六連をつくるにあたり,ごてごてやったのが早稲田と慶應だったようです。

W:(結成式のプログラムを見ながら)六連の結成に至る経過報告を私がしたものですから,その当時のことを簡単に振り返ってみたいと思います。当時,早稲田と慶應はわりと親しくやってました。昭和24年から早稲田と関西学院が交歓会をやり始め,それから慶應と同志社が昭和25年から交歓会を始めました。このような動きを背景として,近くにも大学がたくさんありながら,遠くの大学あるいは特定の大学とばかり親しくしているのも何かおかしいじゃないかという考えがあったわけです。近くの仲間を一つの集まりにできればというのがそもそもの思いつきですね。

K:昭和26年の9月11日に新宿の風月堂で,六大学合唱連盟設立の件を早稲田と慶應が話し合ったということが記録にありますね。(笑い)(ワグネルニュースのこと?)

W:そうですね,昔はあそこも静かな喫茶店だったんです。そこで慶應と初めて打ち合わせをしたところ,慶應もやろうじゃないかということだったんです。次に他の大学とどうやって連絡をつけるかということで苦労しました。東大はわりとまとまっていました。明治の場合は大学へ行って探し回って部室をやっと見つけた。法政さんは記憶では明治の方に連絡してもらいました。立教のほうは慶應にお願いした。ということでとにかく連絡がつき,後は早くことが運びました。9月22日に慶應で一同が集まり,そこでその後の方針を決めたわけです。

K:このときに他にも,青山学院や中央大学のほうで入れてくれという話がありましてね。

W:ええ,明治の方が積極的に入れようと言ってました。しかし,これからつくっていく海の物とも山の物とも知れぬ連盟ですし.第一に,もし演奏のときに8つも10も大学が出てき03.gifW:早稲田(初代)     内田 和氏て,東京大学合唱連盟ということでは合唱祭のようになってしまいますから。とにかく六大学だけで発足してみて,後に考えられるなら間口を広げてもいいということでした。この会合で東京六大学合唱連盟でいくということが決まったわけです。その後,9月27日に早稲田の学生ホールで設立準備委員会が開かれ、10月15日には明治の記念館で,さらに11月8日に3回目の打ち合わせを東大でやってます。そうして11月12日に明治大学の講堂で東京六大学合唱連盟の結成式として記念演奏会が行なわれたわけです。


M1:そうすると始めてから随分早いですね。

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T:私共の音楽部50年史によると,昭和26年の5月にNHKで六大学野球の応援歌特集番組があったときに各大学と競演して,これをきっかけとして六大学合唱連盟の構想が生まれて,9月22日に具体的な検討が始まったとありますが。

W:その辺の事情はよく分かりませんが,結局この時期にちょうど各大学にやろうという意向があったということだと思います。きろかけが良かったんでしょうね。

K:こういう実務的なことは全て内田君がやったんです。僕はもう何もしなかった。(笑い)

W:いや実はね,さっきも言ったように早稲田と関西学院,慶應と同志社,早稲田と慶應とが交歓会をやってましたので,それをまとめたらいいというように高橋君に一任しちゃったんです。ですから東西四連は彼が創立の立役者になるわけです。

R:立教の50年史を見てみますと,やはり昭和26年に早大の内田氏の働きによりということが書いてありますね。これを遡ることですが,昭和8年に立教,慶應を中心とする六連結成の動きがあったということが書いてありますが,東大の反対でつぶれたそうです。(笑い)

K:とにかく,当時以前にも六大学で連盟をつくるという下地があったということでしょうね。

W:いずれにせよ経過はそんなところだと思います。東京近郊のグリーコーラスの愛好家が仲よくするのが本来で,そうして始めて関西の大学とも仲よくやればよい。まず近くだということが単純なきっかけなんです。

ところで,結成式というのは昭和27年の第1回目の演奏会の前年になるわけですね。

W:そうです。しかし,結成式といっても今の演奏会とほとんど変わりませんよ。違うのは開会の辞があって経過報告とか来賓の挨拶があったりしただけです。もっとも今のように各校のフラッグはないし,ユニフォームも黒ずくめでしたけど。結成式の会場は,明治の方が非常に積極的で講堂を借りてくれました。それで最初は無料でやろうということだったんです。ところがもったいないと言うんですよ。(笑い)これからやっていく以上 少しでも金があったほうがいいというわけですもですからプログラムを20円で売ることになりました。

T:当時はラーメンが20円の時代でしたね。

K:あのとき,確か会計は東大の方が引き受けて下さったようですね。連盟規約も法学部の方につくって頂きました。東大の人はそういうことに詳しいから。(笑い)

W:おもしろいのはね,規約のときに各大学の名前の並べ方を明治さんが六大学野球のリーグ戦の順位で決めようと言うんですね。(笑い)結局はアルファベット順ということになったんですが,準備委員会を開いているといつもそんな話が出るんですね。当時,早慶以外は交流がなかったのに、皆集まってみると仲よくやってるわけですよ。非常に楽しくやってたのを思い出します。

K:合唱団の交流の場といえは 合唱祭とか合唱コンクールぐらいしかなかったですからね。当時はとても盛んでした。というのも,今とは違って,その当時大学で一つの会場を04.gifK:慶應義塾(初代)  高橋和夫氏借りて演奏会を開くということはまずありませんでしたから。いろんな意味で戦後の合唱活動に合唱祭が果たした役割は大きいと思います。合唱コンクールに出場することも各大学の励みになったんじゃないですか。

結成式が済んでから半年たって第1回目の演奏会になるわけですね。

W:僕たちは年が明ければすぐ卒業だから,後は村山君達のことになりますね。

M1:結成式が済んですぐ第1回の演奏会をやるつもり射いろいろな事情でできなかったんです。

H:当時のことですから,ああいう大きな演奏会をやるには日比谷と共立と日本青年館ぐらいしか会場がなくて,我々の場合は日比谷をとることが大変なことだったんです。会場をとるために,6校で6名出ていってお金も1万円ずつ用意して,それで全員が学生服というわけにもいきませんから,中には背広を着たり,バレエサークルか何かのマネージャーに変装したりしましてね。(笑い)

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R:あれは確かただ当たるだけではいけなかったんでしょ。他の人が辞退しなきゃいけなかったんですよね。

T:私の記憶だと,6人でひそひそと話をするわけにもいかないので,誰かが当たったら後ろ手に合図を送るなんてことを決めてましたよ。

H:会の名前を6つつくるのに結構骨が折れました。

T:そうすると,村山さん達の代のノウハウを我々もしっかり受け継いでいたわけですね。

M1:つまり明治でやった結成式の後に定演を開いて基礎がしっかりしたということでしょうね。

W:そうですね。やってみるとみんなホクホク顔でもうかりますねなんて言うんです。もうかるのは当たり前じゃないか,何といっても東京六大学合唱連盟というのは語呂がいいし魅力だよ,なんて言ってたのを覚えています。

H:私は第1回と第2回の六連の委員をやらせて頂きまして,手元に「東京六大学合唱連盟第1回合同演奏に関する保存書類」なるものが残っているんです。この中に入ってい05.gifH:法政(1・2代)     村山 叡氏る書類は皆さんが苦労なさったものだと思いますよ。参考までに合計報告を見てみますと,会場費が日比谷で26,000円です。音響板とかマイクを使ったのが,1,800円。プログラムの印刷は明治の印刷所で格安にやって頂いて35,250円。1部17円50銭ぐらいで
すね。チラシが1部45銭。入場税が高くて45,200円。ポスターを各方面に貼り出したのが7,500円。著作権料が500円。アナウンサーの謝礼が1,500円ということです。収支をはじいてみますとやはり六連はもうかるという数字が出てますね。(笑い)

T:当時会計をやっていましたが,確かに黒が出たという印象は強かったようです。各校の演奏旅行や合宿の費用の足しに最適だったと思いますよ。

H:ちなみにプログラムは1部30円で売ってますね。入場料はもちろん100円でした。

当時はどうやってチケットを売っていたんですか。

T:第3回のことですけれども,各校に責任枚数というのがありまして,各校が責任をもっ06.gifT:東大(3代)       佐藤宏二氏て売れということでしたね。ところが東大あたりは女性のコネが少ないからなかなか売れないわけです。立教,慶應などは人気があってよく売れたようです。責任枚数のうち売れない分は立教さんに引き取ってもらったりなんかしました。

H:確か100円の入場券を各校120枚ぐらいずつ売ればそれで経費が出たように思います。あとは次回への繰り越し高というようにしてました。

T:これはオフレコにすべきことかもしれませんが,当時は入場券に入場税の検印を受けるんです。そのときに先輩達から教えられてうまくやってたわけですね。こっちのポケットから出してそっちのポケットに入れるとかして。(笑い)それで随分たくさんチケットをつくった記憶があります。時効ですからまあいいと思いますけれど。(笑い)

R:全員来たら大変でしたね。

H:日比谷公会堂は2,600ぐらい入れましたね。

T:それくらいだと思います。ところが,当日お客さんが来たら3,000を越えていたんです。それで仕方ないから鉄扉を締めてもらいました。第3回からは2回公演で翌日は共立講堂でしたが,そのときもお客さんがあふれてしまって,あまり詰め込むものだからお客さんも怒っているわけです。当時,早稲田に小尾君という元気のいい人がいまして,ステージが始まる前に幕の前に出てうまいこと言ってなだめてもらったことが記憶に残っています。定員オーバーすると消防署のお叱りが怖かったですね。

M1:当時,六大学で合唱連盟が結成されたということで非常な反響があったわけです。入場者の定員オーバーというのは第1回の演奏会からあったんです。これもやはり入場券のスタンプ押しの秘伝を早稲田と慶應に教えてもらっていたからでしょうね。(笑い)

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K:ワグネルの場合は当時から学外のホールを使っていましたから,やはり税務署の問題があったわけです。学外で演奏会を行なう場合は入場税というのが厳しくて,ごまかすのもうまかったようです。麹町税跨署というのは非常に厳しかったように思いますね。

R:今の千代田税務署ですね。

H:ただ,第1回目の演奏会についていえば,お客さんが来てくれるかということはやはり心配でした。今でも覚えているのは,六大学の委員が3時頃に日比谷の花屋か何かに集まって,6時に開演ですから,そこから公会堂のほうへ歩いていったわけです。ブラブラ行って野外音楽堂のあたりまで来ると,人が大勢群れているわけなんです。昼間にシャンソンか何かやってましたから,それであふれているのかと思ってたんですね。我々が着いたのは4時頃でしたが,実はそれが六連を聴きに釆て下さった人たちだったんですね。あのときは我々もさすがに感激しました。

R:第3回の我々の代のときは2回公演でしたが,第1・2回は1回公演だったわけですね。

H:佐藤さんと香取さんの代でつくった六連の機関誌の創刊号によると,紫という寿司屋で1代2代のマネージャーの追い出しコンパがあったとき,何しろもうかるんだから2回やれと先輩から盛んにハッパをかけられて,辟易したけれどもやることに決定したとか何と か書いてありますね。(笑い)

ところで浅見さんの頃はどうでしたか。

07.gif1~3代の六連マネ(昭和28年頃)M2:私は第8代のマネージャーで明治が混声からグリーになった代に当たるわけです。その頃は日本青年館から共立に演奏会場を変えた時期だと思います。ですから神田税務署の所になるわけですが,やはり諸先輩方のアレをずっと引き継いでいましたね。伝統だと思いますね。正直申し上げて定員オーバーで消防署から随分お叱りを受けました。

当時も会場とりは大変だったのですか。

M2:会場とりに関しては私達は苦労した覚えはないですね。半年から一年ぐらい前に翌年の日程を決めて予約金を払い込むだけです。当時は共立でずっとやってましたから専約のような形でした。

08.gifM1:明治(初代)        中川正男氏Ml:明治のことで申しますと,私達の頃は混声でしたから,第一回の六連の合同を男声だけで歌ったというのは特に感銘が深いわけです。各校の練習を見せて頂いてその時に感じたのが,女性がいると面倒くさいなということでした。各校が男だけで意思統一ができ行動できるということがとても羨しかったですね。

H:逆に我々は女声があって羨しいと思いましたよ。(笑い)

M2:結局,混声の明治大学合唱団から男声の明治大学グリークラブとして六連に新たに登場したのが,第8回の共立の演奏会のときということになるわけです。

話題は変わりますが,今でも六大学対抗の野球大会をやってますが昔はどうでしたか。

R:立教の部史によると我々の時代に東大のグランドでやったようなことが書いてあるんですが今年はどうなんですか。

秋に東大のグランドを使って明治が優勝しています。(笑い)

H:第1回のときはやはり東大のグランドを借りてやってますが,そのときは法政が優勝しましてね。甲子園の補欠か何かがいるもんですから調子がいいんですわ。(笑い)

K:野球というのが今と一寸感じが違いましたよね。昔は大事な娯楽でしたからね。今の学生が想像する以上に野球が1つの親睦会として重要な役割を果たしていたように思います。ですから手っ取り早くお互いに知り合えたわけです。早稲田の学生を知ったのも音楽会じゃなくて野球じゃなかったかと思いますよ。(笑い)先輩やOBとのつながりも全て野球の効用でした。今でこそ合同ハイクとかいうしゃれたものがありますけれど,当時はそういうものはなかったですしね。

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W:早稲田と慶應は六連の結成前から野球をやってましたから,やはりそういったことが野球大会のきっかけだったように思います。

09.gifR:立教(3代)          香取鉄夫氏R:後になると野球だけではつまらないから運動会をやろうってことになって,実際にパン食い競走とか綱引きをやったようです。六連の委員でない者が主催したようですが,100人ほど集まったという報告記がありますよ。

合唱以外にも親睦を深めるような行事が続いていたわけですね。

M2:僕らの頃は野球は中断してました。そのかわり六連主催でサンケイホールを借りてクリスマスの頃にダンスパーティーをやりました。

K:ダンスパーティーというのはね,当時は各部が部費かせぎによくやってたことなんです。今の現役はダンスパーティーをやって定演の費用をつくろうとかいうことはしませんけどね。当時はよく利用していたようです。

T:そうですね。我々もパー券と称して何回か資金かせぎにやったのを覚えていますね。

W:話は変わるけど,六連ができたとき練習場ではどの学校も苦労していたようですね。我々も庭なんかでよくやった覚えがあります。関学へ行ったら教会があるわけです。とても羨しく思いましたね。

H:私達も練習場所には非常に困りました。六連の六校合同の練習をするときも明治の講堂を借りたり,立教さんまで伺ったりしました。ですから我々六連の委員の間では,六連はもうかるということで,これを基金にして将来六連会館をつくろうじゃないかという壮大な話が出たのを覚えてます。(大笑い)

K:やはり今と昔とはいろんな点で随分状況が違いますね。

R:我々の頃は特に六連のマネージャーというのはなくて渉外のマネージャーがやってましたが,今はそうじゃないんでしょ。

K:今は各校ともクラブ運営のための職制が非常にきっちりしてますね。だからかえって不都合なこともあるんですよ。責任分担はしているが互いの連絡ができてないということですね。組織も運営の仕方も我々の頃とは違うし,今では年間のスケジュールをこなすだけでも大変なことだと思います。

ところで最近の六連の演奏会を聴かれたことがありますか。

W:私は毎回行ってますけど,それぞれの大学の特色があっていいと思いますよ。言葉では言い表わせない伝統のハーモニーがありますね。昔はそれほどでもなかったんですけれど,指揮している人にもプロ意識というか競争意識があるんじゃないですか。歌っているほうも熱がこもっていますしね。我々の当時はお祭りみたいなもので,楽しく仲よくやろうということだったんですけれど,30年もたっていますからね。

K:しかしやはり一つのフェスティバルと言えると思いますよ。

確かにそうですね。
それでは最後になりましたが,今後の六連に期待されることなどをお伺いして本日の座談会を締めくくりたいと思います。

K:我々が何か無責任につくっちゃったんですけれど,今日まで六連が非常に隆盛をきわめているというのはとても有り難いことです。さらに今後は40周年,50周年という区切りに,何か想い出に残るようなことをやってほしいと思います。例えば各校が独自ではできないようなオケ版の大曲を演奏するといった新しい企画が欲しいと思いますね。

T:私自身,合唱から随分遠ざかっていて,後輩のみなさんにとりたてて言えることもありませんが,当時を振り返ってみると,六つの大学が集まってきて非常に大きなイベントをやったという記憶があるわけです。抽象的な言い方になりますが,歌うことが目的である
にせよ,人生勉強的な意味を含めて長く続けていかれればいいんじやないかと思います。

R:30年なら30年という区切りを利用して,横のつながりという意味においても名簿などを作って頂ければと思います。それから六連の案内をしっかりして頂ければと思います。

W:東西四連のほうはOBの演奏会を隔年でやるようになってもう2回になるんです。せっかく学生時代に一緒に歌った間柄ですから,六連のほうも是非にと思いますね。それと30年もたったんだから,たまには東京以外で公演したらどうかと思うんです。二回公演する余力があるのなら少し東京から離れたところでやってもできるんじやないかと思いますよ。

H:30年といえばやはり大いなる伝統だといえましょうから,諸先輩の築いてこられたものの継承にご努力願いたいと思います。それに名簿の整備とかOBの演奏会というのも希望したいですね。

M1:今後の来たるべき40周年,50周年という区切りには,何か毎年やるのと少し違った演奏をやって頂きたいですね。私の場合,今日内田さんや高橋さんとお食いできたのが実に28年ぶりのことなんです。今後もこういう企画があると我々には嗜しいですよね。

10.gifM2:明治(8代)       浅見勝衛氏M2:私も同じ代のマネージャーが顔を合わせる機会があればと思います。それと,4年や5年に1回ぐらいは合同曲の後にOBのステージか何かをつくって項ければと思います。

W:最後に付け加えますが,学生時代に歌が好きで4年間歌ったんなら,一般社会に入っても続けてほしいと思います。各大学ともOBの集まりがあるんだから,社会に出ると忘れてしまったようになるんじゃなくて,ずっと続けてほしいというのが僕らの率直な気持ちですね。


本日はお忙しいなか本当に有り難うございました。
(尚、六連の30年を振り返って,何かお気付きの点がございましたら御一報下さるようお願い申し上げます。文責:平田)



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