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アリオン100.jpg法政大学アリオンコール HISTORY


初演 1993年5月1日 第42回六連(東京文化会館)  指揮 田中信昭 小鼓 高橋明邦

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「美女打見れば」について

柴田南雄

 小鼓を伴う、六曲からなる男声合唱曲「美女(びんじょう)うち見れば」は、法政大学アリオンコールの委嘱による作品で、今回が初演です。
 歌詞は12世紀後半に成立した「梁塵秘抄」に拠っています。現存する「梁塵秘抄」に収録されている566篇の、長歌と小柳と今様に分類されている歌どもは、当時の小唄であり、歌謡曲であり、演歌であります。人々の日常の生活感惜が率直に表現されており、現代のわれわれにも、すこぶる魅力に富んだ文芸であります。
 「美女うち見れば」(no.107)は、小生にとっては、「梁塵秘抄」を歌詞とする合唱曲集の第三作目に当たります。つまり、これで三部作が完結したことになります。その最初の曲集は19舶年に桜楓合唱団のために作曲した、箏を伴う女声合唱曲「秋来ぬと」(no.96)で、次の第二作は1990年に大阪のローレル・エコーのために作曲した、日本の横笛を伴う混声合唱曲「春立つと」(no.101)でした。両者とも、各地のアマチュア合唱団によって、しばしば取り上げられています。
 第1作の「秋来ぬと」の歌詞には、合唱団の皆さんが主に中年の女性の方々なので、いわば『まちぼうけ』の歌を主に選びました。つまりは、人生の「秋来ぬと」というわけです。
 第2作の「春立つと」の初演団体であるローレル・エコーの皆さんは、より高齢の、社会生酒をすでに卒業された、中高年ないし老年の方々が多いので、人生の無常や、愛した人との永別を詠んだ歌の中から、しかも、それらをあまり露骨にではなく、遠回しに表現したものなど五篇を歌詞に選びました。題名になった第Ⅰ曲目の歌詞も、「春立つというばかりにや」云々で、華やいだ春を歌ったものではありません。

 さて、今回の「美女うち見れば」は、いうまでもなくアリオンコールの諸君のための曲ですから、「梁塵秘抄」の中から、主として若い男の感情や、ファッションヘの関心、ユーモラスな感じを歌ったものの中から選びました。すなわち、小柳一首(第Ⅰ曲)、今様四篇(うち第Ⅲ曲には二篇の今様を連続して用いました)、および「梁塵秘抄口伝集巻一」(その成立は1169年)の中から「今様と申す事のおこり」と記してある最後の部分(第Ⅱ曲)を歌詞としています。この「美女うち見れば」によって、「梁塵秘抄」による女声・混声・男声の三部作を一応完了したことになります。
 「秋来ぬと」と「春立つと」では、上記のように、それぞれ箏と日本横笛が合唱と協演しますが、「美女うち見れば」を小鼓との協演にしようということは、早くから決めていました。後白河法皇の時代、白拍子が歌った今様は鼓を伴っていました。毎年行われている京都の「時代祭り」でも、自拍子には鼓を持った女性が付添って都大路を練り歩きます。
 現存する「梁塵秘抄」は、前述のように長歌・小柳・今様をあわせて566篇を含みますが、わたくしの三つの歌曲集はその中の17篇を取り上げているにすぎません。しかし「梁塵秘抄」の粋と言うべき、代表的な優れた歌は、この中にほぼ網羅されていると言ってよいでしょう。
 今回の「美女うち見れば」は、元来は昨年の春のアリオンコール定期演奏会のために、田中信昭さんからお頼まれしていたのですが、種々の都合で先送りとなったものです。作曲に着手したのは1991年の12月、しばらく中断ののち、完成したのは1993年2月5日でした。
 これまでにも、委嘱作である「寓歳流し」「わが出雲・はかた」をはじめ、「三つの男声合唱曲」「修二骨讃」など、小生の数々の合唱曲をたびたびステージに乗せて来られたアリオンコールの皆さんと指揮者の田中信昭さんに、今日また、新たな作品の初演を託することに、深い感謝の念とともに大きな歓びを感じております。

(第42回東京六大学合唱連盟定期演奏会パンフレットより)

「美女打見れば(びんでううちみれば)」について

柴田南雄

 小鼓を伴なう、六曲からなる男声合唱曲「美女打見れば」(no.107)は、法政大学アリオンコールの委嘱による作品で、1993年5月1日に田中信昭指揮により、東京文化会館(上野)で初演された。
 歌詞は12世紀後半に成立した「梁塵秘抄」に拠っており、わたくしの「梁塵秘抄」を歌詞とする合唱曲集の第三作目に当たっている。これにより三部作が完結したことになるが、その最初の曲集は1988年に桜楓合唱団のために作曲した、箏を伴う女声合唱曲「秋来ぬと」(no.96)であり、次の第二作は1990年に大阪のローレル・エコ
ーのために作曲した、日本の横笛を伴う混声合唱曲「春立つと」(no.101)であった。(ともに、楽譜は全音楽譜出版社から刊行されており、各地の合唱団によって、しばしば歌われている。)なお、これら三曲はいずれも「そよ」の歌詞による同一のモチーフから始まる。

 「美女打見れば」の歌詞には、主として若い男の感情や、当代のファッションへの関心や、ユーモラスな生活感情が歌われているものの中から、小柳一首(第Ⅰ曲)と今様四篇(うち第Ⅲ曲には二篇の今様を連接して用いた)を選び、それに「梁塵秘抄口伝集巻一」(その成立は1169年)の中の、今様の起源に触れている最後の部分
(第Ⅱ曲)を加えた。
 姉妹作の「秋来ぬと」と「春立つと」では、それぞれ箏と日本の横笛が合唱と協演するのに対Lて、「美女打見れば」は小鼓との協演である。後白河法皇の時代、今様を白拍子が歌う時、鼓を伴っていた。京都の「時代祭り」の行列でも、白拍子には鼓を持った女性が付添っている。
 なお、現存する「梁塵秘抄」には長短566篇の歌が収録きれており、それらは長歌と小柳と今様に分類されるが、いずれも当時の小唄であり、歌謡曲であり、演歌である。人々の日常の生活感情が率直に表現されており、現代のわれわれにも、すこぶる魅力的な詩である。わたくしは三つの歌曲集で全566篇の中の17篇をとり上
げたにすぎないが、しかし「梁塵秘抄」の粋とも言うべき優れた歌は、この17篇中にほぼ網羅されていると思う。
 「美女打見れば」の作曲に着手したのは1991年の12月、しばらく中断ののち、1932年10月に再着手、完成は1993年2月5日であった。

(全音出版譜のための解説)

梁塵秘抄と後白河法皇

1. 梁塵秘抄(1)とは

「梁塵秘抄」は平安時代末期(12世紀末)に成立した歌謡集。撰者は後白河法皇、構成は本編十巻、口伝集十巻の全二十巻と伝わる。今様のほか長唄、古柳(小柳)、法文歌などが収められていた。吉田兼好の「徒然草」や鎌倉時代に編纂された「本朝書籍目録」に記載があり、江戸時代編纂の「群書類従」に口伝集巻第十が収録されているなど古くから存在は知られていたが、15世紀後葉以降に散逸しそのほとんどは失われたと考えられていた。ところが明治44年(1911年)に本編巻第二、本編巻第一と口伝集巻第一の断片、並びに口伝集巻第十一から第十四(2)が発見され、大正から昭和にかけて書籍として出版されるようになり一般に知られるようになった。

2. 「今様狂い」後白河法皇

 「今様」とは、今日風の、当世風のという意味であり、現在の言葉ならば「現代流行歌」や「ポピュラーソング」といったものである。庶民の歌謡とされる今様であるが、「紫式部日記」などの記述から11世紀初め頃から身分の高い貴族の間でも歌われるようになり、徐々に受け入れられていたことがわかる。庶民の歌謡を元にしながらも、京文化、宮廷文化との混淆が進んで行き、12世紀中頃には洗練の度を増してはいるものの従来の歌い方が忘れられるようになってきていた。幼い頃から今様に親しみ「今様狂い」とも呼ばれた後白河法皇は、伝統的な歌い方を保存して後世に伝えるため歌謡集である本編十巻と歌い方や歴史などを記述した口伝集十巻を編集したと言われる。「今様狂い」後白河法皇の、今様への傾倒ぶり尋常ではない。いわく「歌いすぎで声が出なくなったことは三回もある」「鳥羽殿にいた頃には五十日ほど歌い明かした」「東三条殿では船に乗って人を集めて四十日余り、日の出まで毎夜音楽の遊びをした」などなど。そのような有様であったから父である鳥羽上皇からは「即位の器量ではない」(3)とみなされ、乳母(めのと)の信西からも「和漢の間、比類少きの暗主」(4)とまで言われている。今様を近習の貴族と楽しむばかりでなく、京の男女、端者(はしたもの)、雑仕(ぞうし)、遊女、傀儡子(くぐつ)など幅広い階層の人々と交流し、天皇、上皇という身分にありながら市井の芸能者である乙前を師匠に迎えるなどの行動は、貴族社会の常識から大きく逸脱していた。

3. 「日本国第一の大天狗」後白河法皇が生きた時代

大治2年(1127年)に鳥羽上皇と中宮・藤原璋子の第四皇子として生まれた雅仁親王(後白河法皇)は皇位継承とは無縁の立場にあり、前述の通り今様などの遊興に明け暮れていた。ところが久寿2年(1155年)異母弟の近衛天皇の急死により状況が一変する。近衛天皇の後継として望まれたのは後白河法皇の息子である守仁親王(5)であったが、守仁親王はまだ年少であることや、父である雅仁親王が存命であるにもかかわらずそれを飛び越えて皇位に即くのはいかがなものかという意見もあり、守仁親王即位までの中継ぎとして雅仁親王が即位することになったのである。立太子を経ない異例の即位だった。後白河法皇の天皇としての在位はわずか3年に過ぎないが、譲位後は実に34年の長きにわたり院政を敷いた。その治世は武家の台頭によって平安時代が終わり鎌倉時代へと歴史が進む時代であった。保元の乱(保元元年:1156年)と平治の乱(平治元年:1159年)によって平清盛が権力を握り平家が隆盛を極め、治承・寿永の乱(治承4年:1180年〜元暦2年:1185年)いわゆる「源平合戦」を経て平家が滅亡し源頼朝を中心とする鎌倉幕府が樹立される激動の時代に、後白河法皇は何度も幽閉・院政停止に追い込まれたがそのたびに復権している。情勢に翻弄されているように見えながら、したたかに敵と味方を取り替え、使い捨てる様は妖怪・化生にも見えて、源頼朝は「日本国第一の大天狗」と呼んで警戒したという。後白河法皇は数々の戦乱・政変に当事者として関わりを持ちながら、よくぞ歌謡集を編纂する余裕があったものだと、半ばは呆れ、半ばは感心せざるを得ない人物である。

監修 B2 廣瀨 歩

(1) 書名の「梁塵」とは魯(ろ)の虞公という声のよい人が歌うと、梁の上の塵までが動いたという中国の故事による。
(2) 明治に発見された口伝集巻第十一以降については「本朝書籍目録」の全二十巻という記載と矛盾することや後白河法皇の撰ではないと見られることから本来は別の書であったと考えられている。
(3) 「愚管抄」天台宗僧侶の慈円による鎌倉時代初期の史論書
(4) 「玉葉」平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて書かれた公家九条兼実の日記
(5) 生母が出産直後に急死し祖父である鳥羽上皇に引き取られ、その后である美福門院(藤原得子)に養育され養子となっていた。

出版 全音楽譜出版社
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録音

「柴田南雄とその時代 第二期」fontec
(新しい合唱団 男声 小川実加子 小鼓 田中信昭 指揮)
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演奏 

法政大学アリオンコール
六連(第42回〈初演〉、第55回)
法関(第32回、第41回)
定期(第43回、第46回、第55回、第59回)

 大阪H・シュッツ合唱団、甍会