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アリオン100.jpg法政大学アリオンコール HISTORY


初演 2003年11月26日 第53回定演(国立オリンピック記念青少年総合センター大ホール) 
指揮 島田英朗(2003年度法政大学アリオンコール副学生指揮者)
指揮指導 田中信昭

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プログラムノートに代えて、合唱団のみなさんへ、

三輪眞弘

 「無限旋律生成術」の練習では大変な苦労をしたことと思います。とにかくこの作品は「ヘン」な作品です。みなさんにはまず、「規則」が与えられてその規則を覚え、それに従って歌うことが要求されています。指定された規則は指示をよく読めば理解できるはずですし、要求されていることも超絶技巧のようなものはひとつもありません。しかし、一見「ヘンだけど不可能ではないはず」のこの作品の演奏がいかに難しいものであるかはぽ<自身わかっているつもりです。その難しさとは、音楽-ぽくらの場合はヨーロッパで培われてきた西欧の伝統芸能における音楽一が到達した洗練に対して、この作品は挑戦し、ある意味で異を唱えていることから来ています。それは、例えば楽譜がないことに象徴されています。楽譜がないということは通常の練習が成立しないことを意味しています。「このパートのこの部分の音程は取りに<いから練習しておこう」などということができないわけです。決められた規則に従ってその場で音程を取つてい<ことそのものを新たに練習しろ、とこの作品は要求しているわけで、これはクラシックに代表される西洋伝統音楽とその新山l可能性を求めるみなさんの期待に対する過剰な、あるいはそれに反するようなぽ<からの害えだったのかもしれません。
 ただ、みなさんのような大学生の合唱団を想定しなかったら、ぽくはこのような作品を作らなかったかもしれません。なぜなら多くの場合、このような曲を書<と「楽譜があれば必ず正確に歌ってみせますが、そのような訓練は私たらの仕事ではありません」と言われる可能性が高いからです。つまり、左官屋さんでもコックさんでもありとあらゆる職業分野では優れた人なら必ずプロ意羞乱良い意味での高い誇りを持って仕事をしているわけです力\それはその専門の範疇をひとつでもはずれたとたんに「私の仕事ではない」という拒絶を生み出すことでもあります。これは当然で、例えば音楽家ならば、楽譜をすばや<正確に読みとりそれを表情豊かに演奏してみせることに、それこそ子供の頃から日々訓練を重ねてきたわけですから、その「特殊技能」を最大限に発揮できるものならl凍えてきた腕前を披露することができますがそうでなければ「誰がやっても同じ」ことになってしまうからです。そして、洋の東西を問わず文化というものはこのような「特殊な身体」によって受け継がれ支えられてきたわけです。

 しかし、まさにその点にぽくは着目せざるを得ないのです。白本における西洋文化に根ざすこの「特殊な身体」にぽくは現在大きな疑問を感じているからです。これは西洋文化を否定することでもプロの技を軽んじることでもありません。ただ、今ここ(2003年の日本)にある以外の発想や技術、そして身体もあり得るはずだという憧れにも近い確信に基づいています。そしてそれが単なる妄想ではないことは地球上の人類の多様な文化に目を向けてみれば明らかなことだと思います。つまりこの作品では、日本どころか、まだ地上にはない、しかし「あり得たかもしれない」音楽の技術をみなさんがゼロから習得するという実はトンデモナイことが求められているわけです。「まだ地上にはない」ことはしかし「非人間的」であることを意味しているわけではありません。非人間的というならばむしろ長7度や短9度の音程を素早<歌ってみせることの方がずっと人間にとっては不自然で難しいことだと言えるでしょう。
 ただし、ヴァイオリンを習い始めた子供からよつとした小品が弾けるようになるまでにどれぐらいの時間と労力を必要とするかを考えてみれば、前例のない技術をある程度習得することがどれほど困難かは想像できます。それは様々な伝統文化が到達した高度な「洗練」とはほど遠いものにならざるを得ないでしょう。しかし、その洗練や芸術表現を暗黙理に支えて<れていたはずの文化という土壌に期待できないとしても、ぽ<はこの作品が人間に可能であるということの意味に何にもまさる期待を持っています。
 個人的な話になりますが、ぽくはコンピュータのアルゴリズムによって旋律や音響を生成する試みを長い間続けてきました。その中で決して叶えられなかった夢があります。それは演奏する「その場で」アルコリスムによつて旋律を生成してい<ことです。複雑な結果を生み出すアルコリスム(計算の手順)を人間自身が計算しながら逐次それを演奏することは、コンピュータだけなら簡単にできるとしても、通常到底不可能なように思えます。事実、ぽ<の書いてきた作品の多くはコンピュータによって生成した旋律の結果を五線譜に書き直し、事前に演奏家に練習しておいてもらうことがほとんどでした。今回は合唱団という多人数で構成されるグループであることから、計算をメンバーひとりひとりに振り分けて分散処理するようなシステムをコンピュータ・シミュレーションを重ねながら試行錯誤し考えてみたわけです。それはある種のゲームのようにも、また不思議な儀式のようにも見えるかもしれません。この作品はそのとれでもあるし、またそのどれでもない、かつてまだ誰も試みたことのなかった音楽なのです。この作品を作ったのはぽくですが、それは作品の核となる基本原理を提示したに過ぎないと考えています。動き万や歌い方はもらろん演算の方法などなど様々な点でより合理的でより美しい演奏方法が考えられると思います。それは実際に歌い体を動かしてみないとわからない、設計図には書ききれない最も大切な部分です。みなさんでどんどん改良し「アリオンコール流」歌唱法が確立していったらどんなに素晴らしいかとひそかに思つています。それこそが「文化の洗練」ということだと思うからです。
 このような暴挙に最後まで付き合ってくれたみなさんに心から感謝し、またそもそもこのような機会を与えてくださった田中さんに心からお礼を申し上げます。

※以下のテキストは三輪先生から戴いた、架空の「いわれ」です。

無限旋律生成術

作 三輪眞弘

 「無限旋律生成術」は初期キリスト東方正教会の分派として、エジプトで独自の歴史を歩んだコギト教会の修道院に伝わる不思議な「歌唱法」を再現した作品である。
 このコギト聖歌について記述した当時の資料は「二群に分かれ対峙したコギト教会の修道僧達は奇妙な歌唱法を用いて神を讃える調べを交互に歌い交わし、その旋律は何昼夜も途絶えることなく修道院に響き渡った」と伝えている。
 この聖歌の興味深い点は、通常「歌唱法」と我々が呼ぶものが主に発声の技術などを教えたものであるのに対し、彼らのそれは歌うべき旋律そのものを歌いながら生み出していく術を教えているところである。
 つまり、歌い出しの音さえ与えられていればこの「歌唱法」によって次に歌われるべき音型が必然的に決まっていくため、修道僧達はグレゴリオ聖歌のような詠唱を続けながら無限に続く旋律をいつまでも紡ぎ出していくことが出来たのである。

 記述にもあるように、合唱は「天界群」と「地界群」と名付けられたふたつの群が「定音」と呼ばれる決められた持続音と「生成旋律」と呼ばれる、対峙している群の歌手が指で示した数(レター、「文字」と呼ばれる)を順に読みとりながら歌う旋律部分を交互に繰り返すことによって進行する。
 これは「旋律言語」とも呼ぶべき「言葉」による、神と人間との「対話」を通して絶え間なく生成されるこの宇宙のダイナミズムを表したものと言われ、また旋律のひとつのまとまり(ワード、「単語」と呼ばれる)が終わる度に歌手が一人ずつ天界群と地界群を移動していく様はキリスト教信仰に基づきながらも、コギト教会に特有のある種の輪廻思想がそこに見え隠れしているという指摘もある。
 なお、紀元前3世紀ごろアレクサンドリアのデメトリウスが、七つの音をギリシャ語の母音で表したエジプトの頌歌を記録したことが知られているが、コギト教会で行われるこの聖歌でもまた、聖書のテキストではなく、コギト文字で記されたそれと同じ七つの母音が使われている。

という夢をみた。

出版/録音 なし

演奏

法政大学アリオンコール
定期(第53回〈初演〉)