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アリオン100.jpg法政大学アリオンコール HISTORY

作曲家 間宮芳生

  変換のスピードがいよいよ加速してゆく現代にあって、70年という、とほうもない時のスパンで、うたい継ぎ、うたを育てて来たアリオン・コールの活動の持続は、ひとつの驚異だ。しかし、人間は、そして人間の文化は、こういう時代だからこそ、人の歩く速度でもmamiya.gifのを見ること、感じることを、決してやめてはならない。電子楽器が出すリズムでなくて呼吸するリズムで考えることをやめてはならない。だからうたが大切なのだ。
アリオン・コールのために「合唱のためのコンポジション第6番」をつくったのが1968年だから、それからでも30年だ。あの6番のときに、ぼくのコンポジションのシリーズに、1番にさかのぼって番号をつけることにした。ぼくにとってふし目の曲だった。それから、アリオン・コールは、とても大切に「6番」をうたい継いで育ててくれている。本当に感謝している。
 その次の7番「マンモスの墓」からあと、自然と人間の共生、自然の意志を感得し、それと共振、調和するための道を自然から聴く、たぶん太古の人類にはそなわっていた感応力をとりもどすための、呪い(マジナ)のことば、呪い(マジナ)の音(声)をさがすことが、ぼくの合唱のためのコンポジションのテーマである。
1993年には、東北学院大合唱団のために、アメリカンインディアンの口承詩による「おまえの声は花粉になる」を書き、1994年には仏教教典を、サンスクリット語、漢語、日本語の三つのことばでうたう、最新のコンポジション「14番」を書いた。これらも同じテーマのつづきだ。どちらも、次にはアリオン・コールの声で聴いて見たい。

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作曲家 三善 晃

 ≪法政大学アリオンコール70年の紡ぎ≫

 田中信昭さん指導の法政大学アリオンコールとの交際いは、1970年に作曲を委嘱されて≪王孫不帰≫を書き、同年12月の第20回定期で初演していただいたときからですから、もう30年近くになります。miyosi.gifその後のアリオンコールとの協同では、77年に編曲組曲≪ルフラン≫、81年に≪縄文土偶≫の第1曲≪ふるさと≫、85年にその第2曲≪王子≫をそれぞれ委嘱初演、更に86年には≪路標のうた≫を関西大学との共演で初演していただきました。この80年代までの男声合唱曲としては、ほかに63年の≪三つの時刻≫があるだけですから、私の男声合唱曲は田中さんと法政アリオンに先導されてきたと申せます。
 いずれも技術的に難しく、音楽的には新しい領域を求めたもので、大学合唱団の初演曲としてはかなり目陰だったと思いますが、その都度、若いアリオンは実に意欲的に取り組み、見事な演奏をしてくれました。≪王孫不帰≫などはほとんど伝統のように何度も再演を繰り返し、その度にこの難曲を音楽的に深めてくれました。この曲について申せば、最近は高校合唱団などでもよく歌われるようになりましたが、それはアリオンがここまで愛情と熱意を以てこれを育てて下さったからです。
 年度変わりに、いつも先輩から受け継いだ後輩が挨拶にきてくれますが、そういうアリオンの人間的な伝承が縦糸となり、毎年の音楽的な営みが横糸となって、アリオンというテキスチェアーズ(織物)を紡ぎ続け、それがいま70年の輝く歴史となったと思います。
 協同させていただいた作曲家として感謝とともに、同時代人として心からの称賛と祝福をお贈り致します。おめでとう!この伝統を、これからの若い現役の皆さんがしっかりと受け継ぎ、更に生き生きと育ててくださいますよう、願っています。

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作曲家 林 光

百周年へ向けて

 日本の現代合唱音楽(ゲンダイオンガクの合唱版といういみではない)の創造を支えてきたのはアマチュア合唱団の活動だが、なかでもアリオンコールの実績はもっとも注目すべきhayasi.gifものの一つ。その特徴は、第一に多くの作曲家たちの参加を求めていながら(そのひとりに加えていただいたことは感謝にたえない)、音楽的な主張が首尾一貫していること。第二にどの曲もお祭り的な初演で終わりにしないで、くりかえし演奏してきたこと。第三にメンバーが年々入れ代わる運命にありながらその特質を絶やさずに保ってきたさまたるや、方丈記目頭に説く「行く河の流れ」のごとくであること。
 指揮者田中信昭さんのちからは大きいが、それに応えてきた歴代の団員のみなさんの器量はもっと大きい。それにしても七十周年とは知らなかった。ずしりと重い名門の年輪である。
 百周年へ向けて(その頃には田中さんもぼくもいないだろうが)、いっそうのご発展を心からお祈りする。5502.gif

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柴田純子 (故 柴田南雄夫人)

 法政大学アリオンコール70周年と田中信昭先生の顧問指揮者40周年を心からお祝い申しあげます。
sibata.gif柴田が田中先生を通じて「法政アリオン」から最初の委嘱を受けたのは1974年の秋でした。柴田の作風の転回点となった『追分節考』の初演の翌年です。民族芸能の音楽作品化という路線に足を踏み入れた柴田にとって、この委嘱は願ってもない幸いでした。
シアターピース第二作『萬歳流し』は1975年5月3日に初演されましたが、足りない鼓の代わりにタッパーウェアを使ったのもなつかしい思い出です。
 やがて、この作品の素材となった「秋田萬歳」は絶えてしまい、『萬歳流し』の中だけに生き残りました。アリオンコールのおかげで、日本の伝統芸能の一つが生命を持ち続けているのは、本当にすばらしいことだと思います。
 その後柴田は『修二曾讃一男声版』(1978)『わが出雲・はかた』(1981)『美女打みれば』(1993)をアリオンコールのために書きました。新曲の練習や演奏会から帰ってくると、「毎年メンバーの入れかわる大学生の合唱団が、アリオンコールのように独自の性格と高い技術を持ち続けているのは珍しい」と度々言っていたものです。
 これからも、70年の伝統に新しい発展を積みかさねられるように祈っております。

詩人 木島 始

かなめのひと

 1991年3月まで28年間、わたしは第一教養部で英語の専任教員をしていた。また文学部英文科でセミナーを担当、少数の卒論指導もした。だから教室で接した学生諸君の数kijima.gifは、かなり数多い。しかし、それらの学生諸君は、英語の教師としてのわたし小島昭三の単位を得たり、得なかったりであったにしても、詩を書く人間としてのわたし木島始を、ほぼ全く知らなかったろう。
 ただアリオンコールだけが、法政大学在任中に、両方のわたしを一つに結びつけた。そのきっかけは、アリオンコールからの委嘱作「回風歌」の制作だった。わたしの家の近くの石神井公園の喫茶店でアリオンコールの諸君たちと会い、それから田中信昭さんと高橋悠治さんと新宿のホテルロビーで会い、と進んでいった。
 そうこうするうちに、わたしは、部長を引き受けるようになっていた。アリオンコールがわたしの詩の作曲者である林光・間宮芳生・新実徳英・一柳慧氏らの曲を歌っているのは、部長として喜びであり誇りでもあった。
 そしてもう一つ法関合同コンサートのために三善晃作曲「路標のうた」の作詩をできる幸運にも恵まれた。肝心要の功労者である田中信昭さんへ、わたしなりの詩を捧げたい。
 囁き 呟き 叫び 咽き
 体内で目覚める言葉の芯を
 空中へ解き放って そのまま
 また耳のなか深くで蘇らすひと

作曲家 湯浅譲二

日本現代音楽創造への輝かしい業績

 私がはじめて合唱曲を書いたのは、1970年の初めだったが、その頃すでに法政大学アリオンコールの名と、日本の作曲家に次々と新しい曲を委嘱して発表する活動を知っていた。
yuasa.gif当時、作曲活動を20年も続けていた私は、駆け出しでこそなかったが、その私にとってアリオンコールが演奏する作曲家は、当時の日本での最も活発な作曲活動をしている、あたかも証明であるかのように見えた。
 その後、私は「九位によるコンポジション」をはじめ「新木遣・神田讃歌」や「芭蕉の句によるプロジェクション」などを演奏していただいているが、アリオンコールの長い年月にわたる、こうした現代日本の音楽づくりへの参加は、日本の現代音楽史に輝かしい足跡をきざみこんで来ていると思う。
 田中信昭氏の指導と、方向性の設定にともなって、アリオンコールの学生諸君の音楽創造への意志と実践があってこその業績だと思う。将来への継続と発展を心から願って止まない。そして敬意を表する次第である。

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作曲家 一柳 慧

ichiryu.gif 法政大学アリオンコールの長い歴史は、二○世紀にける男性コーラスの時代の証言だと言えます。間もなく、世紀の変わりめを迎えるにあたり、音楽の世界で視つめ直さなければならないものがあるとするならば、それは、音楽の二○世紀を通過することなくして、新しい世紀への展望は拓けてこない、ということではないでしょうか。アリオンコールは、それに応えることのできる数少ないコーラスです。二十一世紀に社会人として活躍される皆さんよって支えられているこのコーラスのますますの発展を期待しております。

作曲家 藤家渓子

hujiie.gif 田中信昭先生の素晴らしさの数々の点については、40年の長きにわたってその指導を受けてこられたアリオンコールの皆様がいちばんよくご存知なのかも知れませんが、委嘱をしていただいた一作曲家としてひとつ付け加えさせていただくならば、先生は何といっても「委嘱の達人」でいらっしゃると私は思うのです。委嘱というのはなかなか難しい作業であり、何を求めて委嘱するのかというあたりを作曲家に感じとらせる、とでもいいましょうか。その「何」は具体的な注文でありすぎても困るし、かといって主義や意義のようなものだけでは音楽にはつながらない。先生の場合は本当に言葉少なにおっしゃることの中に、求める音楽の方角が指し示されるような気がして、まっしぐらに作曲することができるのです。そのせいか「十牛図」は全自作の中でももっとも愛着のある作品であり、アリオンコールがそのレパートリーとして歌い継いでいって下さることを切に願って止みません。

作曲家 伊佐治直

isa.gif 法政大学アリオンコール七十周年、おめでとうございます。
 アリオンコールの活動は、一同好会の枠を越え、日本の音楽界に貴重な刻印を残してこられたように思われます。今後の益々の御発展を、心よりお祈り申し上げます。

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作曲家 中川俊郎

 私が法政大学アリオンコールという存在を強く意識するようになったのは、柴田南雄さんのシアターピースばかりをサントリーの大ホールで上演した大きな演奏会を聴きに行った時以来でした。幾つかの合唱団体が田中信昭先生の配下、大変見事な共演(潜在的nakagawa.gifには“狂宴”という意味合いも含まれていたかと思います。そういえばその場ではたしか、“歌垣”も演奏されたのでしたが)の中で、特に音程その他のディテールの正確さや声そのものの鳴りにおいて際立っていた団体がありました。
数年後田中先生から正にその団体のための作品の依頼を頂きました折に、即座にそののことを思い出しその見事な痘妻を更に徹底的に追及した作品をかってはいたのですがれは私の手に余ることだと分作ることに即決しました。たぶんアリオンの皆さんの声が私肩を後押しして下さったのだと思います。そうして時が経ち、演奏会も間近なある日の練習で田中先生がおっしゃったことばで印象的に残ったものが一つだけあります。
「アリオンの声じゃない声を出して!。」この逆説は芸術活動の重要なキーワードだろうと思います。そして皆さんがそうしたある意味で奇妙とも言える期待に報えることのできる数少ない合唱団体の一つであることを、演奏会の当日私は身を持って確認することができました。これからもきっと田中先生が示唆する逆説を糧に、新たな境地を見せ続けて下さることと確信しています。

関西大学グリークラブOB会理事長 栗本卓司

 「法関」に永遠の友情を感じます。

 法政大学アリオンコール創立70周年、誠におめでとうございます。
私共関西大学グリークラブは、現在創立48周年ですので、先輩男声合唱団としての凄い歴史に驚嘆する思いです。
kansaiglee.gifそもそも両団が出会うきかっけは、昭和36年卒部のアリオンの川喜田敦氏とグリーの西尾良雄氏が、共に三重県立津高校出身で、友人同志として深い交流があったことによります。その縁あって、第1回法関交歓演奏会が、昭和35年12月3日(土)、神田共立講堂(東京)、続いて同年12月18日(日)、産経ホール(大阪)、東西で開催されました。2年の空白の後、昭和38年に第2回、昭和39年に第3回と東西で開催し、翌年の第4回法関交歓演奏会(昭和40年6月22日(火)産経ホール)からは、大阪・東京の交互開催で本年の第36回法関交歓演奏会(平成9年6月24日(火)森ノ宮ピロティホール)まで続いています。
私の現役時代には、第10回記念法関交歓演奏会(昭和46年6月26日(土)大阪厚生年金会館中ホール)を経験させていただきましたが、諸先輩から受け継がれて、今日まで続けられた後輩諸氏の努力に感謝いたします。そうして、いつのまにか「法関」という言葉を、合唱界での固有名称に定着させてしまったのです。東京・大阪での分宿で培った友情、何年経っても変わりません。同期(昭和48年卒部)で久しぶりに再会しても、すぐに意気投合し、お互いの件の力強さを嬉しく思い、「法関」に永遠の友情を感じています。
法政大学アリオンコールの今後の発展を心より祈願いたします。

アリオンコール創立メンバー 故永井「旧姓猪俣」敏男夫人 永井セエ

 アリオンコール創立70周年おめでとうございます。
 ちょうど一年前、長万部駅長の関戸様から、思ってもいないアリオンコールのお話に、亡夫がまた元気で私のところに帰ってきた様な気分になりました。一昨年8月に七回忌をすませ、少しは気持ちも明るくなって来たところで本当に嬉しかったです。さっそく仏様に話かけると、写真が微笑んでる様に見えました。いつまでもいつまでも忘れないアリオンコール、そして時々アリオンコールと善かれた小旗を出しては、嬉しそうに昔昔の話を私にするのでした。
nagai.gif声楽家の平井美奈子先生が、アリオンの皆様をとてもとても可愛がっていらっした様で先生のお宅に行っては、ご主人がコーヒーを入れて下さって、いつもご馳走になっていた様です。先生にはお子さんが二人いらして、アリオンの方々とトランプをしたりで楽しかったというような事をよく話しておりました。また新しい歌が出回ると、さっそく銀座の店に楽譜を買いに行っては、みんなと集まって歌ったそうです。それに信者でもないのに、教会に行って賛美歌を歌っていた様です。
 旧姓は猪股で、昭和3年大学予科入学、8年に法文学部を卒業しました。そして14年に永井家へ入籍、結婚三年目に赤紙が来ました。幸い国内の空港ばかり歩いて終戦ニケ月日に帰って参りました。それからは進駐軍人の世話で大変な時代、英語の免状を頂ておりましたが、学校の英語はさっばり役に立たなかったようです。進駐軍が本国に帰ってから函館局の中を歩いて、少し他の様子を見ておいでと云われて札幌局に出されました。27年函館駅を振り出しに長万部、苫小牧、滝川、そして室蘭駅を最後に定年となりました。函館に帰ってからは保育園の園長として好きな歌を歌って三年間努めました。
最後に好きな仕事が出来まして、こんな事もやはりアリオンコールにつながっているのだ、と得意になって歌って居りました。
 このたび70年史のことで、ご連絡をいただき昔をなつかしく思い出しました。
それでは、今後ともすばらしい演奏活動をなさるようお祈りいたします。

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70年史発刊にあたり、不明点が多かったアリオン創立時のメンバーであり、貴重な写真の数々をご提供くださった故永井(旧姓猪股)敏男氏を紹介いたします。

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1929年(昭和4年)/1930年(昭和5年)

撮影は、創立時のメンバーであり、「法政節」の作詞者である錦織勤氏

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友人たちと(右から2番目が永井氏)

その後のご活躍をつげる新聞記事
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